阿須賀神社
阿須賀神社
主祭神は事解男命(ことさかのおのみこと)。社殿裏にそびえる蓬莱山をご神体とする自然信仰の場であったと考えられていますが、幾度かの火災で古文書が焼失したため、詳しいことは分かっていません。
平安時代には阿須賀王子として信仰を集め、熊野詣の人々が奉納したと思われる平安時代後期~室町時代の御正体(懸仏)約200面が社殿裏から出土するなど、熊野信仰との深いつながりが伺えます。
境内には社殿、拝殿の他、徐福の宮や歴史民俗資料館などがあります。
問い合わせ先
新宮市観光協会 電話:0735-22-2840
新宮市商工観光課 電話:0735-23-3357
南紀熊野ジオパーク推進協議会 電話:0735-67-7100
宮井戸遺跡
阿須賀神社よりやや南東の小さな森。この森の中から弥生時代の土器類や、小石に経文を書き示した「一字一石経」が出土しました。
千引岩には「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」や「不動明王」を示す梵字が刻まれています。
黄泉道守命(よみのみちまもるのみこと)の鎮まる聖域であるとみなされ、それを祭る宮井戸社が建てられていました。
現在は阿須賀神社に合祀され、小さな祠があります。
阿須賀神社の天台烏薬
秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を探し求めた徐福が発見したと考えられるのが、天台烏薬(てんだいうやく)というクスノキ科の常緑の低木です。
楕円形の葉を天日干しにして使用し、肝臓や胃、リウマチなどに効果があるといわれています。
原産は台湾もしくは中国の揚子江以南で、新宮市では徐福伝説にちなんで広く栽培されています。
現在では新宮の特産物として、お茶や入浴剤などに加工され、お土産物屋さんなどで販売されています。
新宮市立歴史民俗資料館
新宮市立歴史民俗資料館は、蓬莱山を神体山と崇める明須賀神社の境内に開館し、地域の歴史・民族資料を保存しています。
蓬莱山から出土した御正体群(重要文化財)をはじめ、新宮城や林業に関する資料を展示し、新宮・熊野地域の歴史と暮らしを紹介しています。
庭には竪穴式住居跡もあります。
阿須賀神社の手水鉢
新宮城の第2代城主・水野重良が、下野国(しもつけのくに)那須(現在の栃木県那須郡)城主・大関高増(おおぜきたかます)の母の延命と繁栄を祈願して、寛永8年(1631年)に阿須賀神社に寄進したという手水鉢です。
大関高増の母は水野重良の父・重仲の養女で、高増の父・政増の夫人である人物です。
手水鉢の材質は、流紋岩で、巨大な一枚岩を刻んで仕上げ、正面には願意や年号・寄進者の名前などが彫られています。
神倉神社にも同様の手水鉢が寄進されています。
徐福の宮
阿須賀神社の境内、稲荷社の右側に建立されている徐福の宮は、阿須賀神社の篤志家らにより建立された石造りの祠です。
幕末の「新宮本社未社図」にも徐福の宮が描かれていることから、随分と古くから徐福が祀られていたようです。
徐福とは、今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕えた人物で、始皇帝の命により、不老不死の霊薬を求めて熊野に渡来したと伝えられています。
新宮駅前には徐福の墓と伝えられる場所もあり、現在は公園となっています。
徐福上陸の地記念碑
阿須賀神社の南側、住宅地の間にひっそりと建つ碑、徐福上陸の地を示す記念碑です。
徐福は、今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕えた人物で、始皇帝の命により、不老不死の霊薬を求めて熊野に渡来したと伝えられています。
太平洋を航行していた徐福一行は、熊野川河口近くにこんもりとそびえる蓬莱山を見て、この地に上陸することを決めたと言われています。
平成9年、上陸地点だと伝わる場所に記念碑が建立されました。
徐福が探し求めた不老不死の薬とは,紀伊半島に自生するクスノキ科の常緑樹で「天台烏薬」(てんだいうやく)であると言われています。
この根は腎臓・胃・リウマチなどの薬となり,また体内で増えすぎた活性酸素を消す働きもあることがわかっています。
蓬莱山
蓬莱山は、標高38m、熊野川に面し、お椀を伏せたような形の山で、南側にはこの山を神体山と崇める阿須賀神社があります。
昭和35年、神社の社殿の真裏にあたる南斜面の大きな岩の下から御正体が発掘され、新宮市歴史民俗資料館に保存されています。