スポーツ偉人伝 川野 忠男
氏名 川野 忠男(かわの ただお)
生年 1920年(大正9年)生
区分 功労者
大正9年1月22日岡山県備前市で生まれ中学時代まで過ごす。中学時代(現:朝日高校)に軟式庭球(現ソフトテニス)に出会い、夢中になって打ち込んだ。慶應義塾大学経済学部に入学後も情熱を傾け、選手としても活躍した。大学卒業後は九州大刀洗黒石原陸軍飛行隊の教官となる。終戦後すぐに両親のいる和歌山に帰り、家業に従事するかたわら選手として活躍し、また、指導者として青少年並びに一般選手と幅広い人材の指導育成に力を注いだ。昭和30年頃から和歌山信愛女子短期大学付属高校の軟式庭球部の指導にあたり、その結果高い成果をあげ、全国大会で活躍する選手を育て、現在の信愛高校ソフトテニス部の基礎を確立させた。さらに、和歌山県軟式庭球連盟(現:ソフトテニス連盟)の組織作りに尽力し、昭和46年の黒潮国体において綿密な選手強化事業計画を策定実践し、自ら監督となり、結果、総合優勝の栄誉を勝ち得たことは多大な功績である。国体終了後、レディースセンチュリークラブ(LCC)を立ち上げ女性スポーツの向上、さらに全国に先駆けてジュニア(小学生)の指導にも力を注いだ。昭和51年から和歌山県軟式庭球連盟の会長を承引し、会の運営、指導普及事業、強化育成事業等を実践し、現存の連盟組織の礎を確立させた。平成元年死亡時に勲5等瑞宝章を受賞。