スポーツ偉人伝 中村 覚之助
氏名 中村 覚之助 (なかむら かくのすけ)
明治32年、和歌山師範学校(現:和歌山大学教育学部)を卒業。宇久井尋常高等小学校(現:宇久井小学校)で教師となるが、わずか1年で退職し、明治33年、東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学。4年の時、英国の「アッソシェーションフットボール」を編さんして、ア式蹴球(しゅうきゅう)部を創設する。これが日本で最初のア式フットボール(現在のサッカー)のチームであると言われている。東京の大塚にあった雑木雑草に埋めつくされていた新運動場の予定地を、部員たちと整地に努め、蹴球のフィールドに棕櫚縄を張り、さらにゴールを建て練習を開始。明治37年、横浜の外国人クラブに出向き、日本で最初の対外試合を行う。この状況が全国に新聞で詳しく報道され、全国の中学校から蹴球指導の依頼が殺到。部員は各地の学校へ指導に出かけたと言われている。明治37年、東京高等師範学校を卒業。翌38年、清国山東省済南師範学校へ国から派遣されるが、明治39年、帰国途中の船中で発病し、29歳の若さで急逝。サッカーを日本に紹介、その普及に大きく貢献した。なお、日本サッカー協会の旗章に描かれる鳥は、熊野三山に祀られる霊鳥「八咫烏(やたがらす)」と同じである。その「八咫烏」は、神武天皇が東征の時、熊野に迂回し、「八咫烏」の先導で大和に入り建国したという神話に登場する。また、平安時代 蹴鞠(けまり)の名人と言われた藤原成通が技の奉納に訪れたとも云われ、熊野は古くからの蹴球との深い関わりがある。また、日本サッカー協会のシンボルマークは、日奈子実三氏のデザインによるものであるが、その図案の発案者は、東京高等師範学校の内野台嶺氏を中心とする人たちであり、内野台嶺氏は覚之助の後輩にあたる。