和歌山と移民 概要編
全国第6位の移民県-和歌山県からの移住者数-
和歌山県からの海外移住者数は、第二次世界大戦前がおよそ31,000人、戦後がおよそ2,000人で、広島、沖縄、熊本、山口、福岡についで第6位です(『海外移住統計(国際協力事業団・1994年発行)』より)。日本最初の公式な移民は、1885年(明治18)の第一回ハワイ官約移民※で、945人の移民のうち、22人が和歌山県人でした。
和歌山から世界各地へ移民した人たちの多くは、移住先での永住ではなく、出稼ぎを目的としていました。稼いだお金の多くを、故郷へ送金していたのです。家族や親戚はもちろん、出身地の学校や寺、神社などへも送金されていて、故郷の暮らしを支えていました。
和歌山県出身の移民からの送金額は、大正末期まで、全国一位であったといわれています。(『和歌山県移民史』より)
※官約移民
ハワイ王国からの依頼でハワイ政府と日本政府との間に条約が結ばれ、日本からハワイへ移民が送り出されました。この政府間条約によってハワイに渡った日本人移民を「官約移民」といいます。
世界各地の和歌山県人会
世界各地へ移民した和歌山県出身の人々は、親睦や相互扶助などを目的に、和歌山県人会を組織しました。故郷から遠く離れた異国の地において、こうした県人会の存在は移住者たちの心のよりどころとなりました。現在、様々な活動を通して文化や伝統を次世代へ継承しています。
和歌山県人会と和歌山県の交流
和歌山県では、県人会の活動を称えるとともに今後の関係維持を図るため、各県人会の創立周年記念式典に参加しています。
また、南加和歌山県人会および中南米諸国の和歌山県人会の子弟を受け入れ、ホームステイや県内学生と交流を図るなどの事業を実施しています。これは、子弟が自らのルーツである和歌山県との交流やその理解を深め、将来の県人会の発展につなげることを目的としています。
各地に移住した移民の概要
<ハワイ>
1880年代、日本政府とハワイ王朝との移民協約に基づきサトウキビ畑で働く契約を交わした官約移民が始まる。その後は様々な職業に就き、和歌山県からの移民は漁業などで活躍した。
<アメリカ>
1890年代以降、ハワイより賃金が高く、開拓途上で移民を歓迎したカリフォルニアなどへの移住が増加し、農業、鉄道、 鉱山、漁業、商工業などに従事。日本人が多く住んでいた地域には、コミュニティが形成された。
<カナダ>
1880年代後半から、ブリティッシュコロンビア州での鮭漁に従事する人々の移民が始まる。漁業従事者の大半が和歌山県三尾村(現日高郡美浜町三尾)出身者で占められ「加奈陀三尾村人会」が結成された。
<オーストラリア>
高級ボタンの材料とされた白蝶貝採取のため1880年代からオーストラリア北岸に位置するダーウィン、ブルーム、木曜島への移民が始まる。木曜島で採貝労働に従事する日本人は、全労働者の6割に達した。
<ブラジル>
1908年、笠戸丸での渡航からブラジルへの移民が始まる。多くの人々はコーヒー農園等での労働に従事した。戦後の食糧難・就職難や、1953年に発生した大水害を背景に和歌山県から多くの人々が移民した。
<メキシコ>
元外務大臣榎本武揚が、1897年に自ら設立した移民会社によりメキシコへの移民が始まる。1935年にはシナロア州に移民した和歌山県人による県人会が設立された。
<ペルー・アルゼンチン・パラグアイ>
ペルーへの移民は1899年に始まり、初期にはサトウキビ農場での労働に従事した。
アルゼンチンへは、日本からの渡航者以外に、ブラジルなどからの転住者が多く渡った。
パラグアイへの移民開始は1936年と新しく、和歌山県出身者が移民の受け入れや新しい移住地の立ち上げに貢献した。