平成10年2月 和歌山県議会定例会会議録 第6号(鶴田至弘議員の一般質問-1)
県議会の活動
○議長(木下秀男君) 質疑及び一般質問を続行いたします。
35番鶴田至弘君。
〔鶴田至弘君、登壇〕(拍手)
○鶴田至弘君 議長のお許しをいただきましたので、一般質問並びに質疑を行わせていただきます。
まず最初に、和歌山下津港の問題についてでございます。
一番目、和歌山下津港の本港沖地区の新たな港湾建設でございます。
国が第九次港湾建設を発表して以来、新たな港湾建設が全国的なラッシュとなっております。本県の周辺を見渡すだけでも、神戸港、大阪港を筆頭に姫路、小松島、今治、高知新港、まさにバブルを想起させるありさまであります。和歌山に水深十四メートルのバースが必要かどうかの議論は別としても、この状況は無視することはできません。
一方、外国貿易は必ずしも大きな伸びは見せておらず、地方港の外貿コンテナ事業は、一時期大きな伸びを見せたものの、早くも下降線をたどり始めておると言われており、海運会社でつくる日本コンテナ協会では地方にそんなに需要があるとは思えないと、バースの利用者自身が表明している状況にもあります。
最も最近の調査では、一部マスコミでも報道されましたが、日本開発銀行大阪支店の調査が注目されます。この調査は神戸港という国際港に視点を当てたものではありますが、日本の港湾の抱えている問題をリアルに論じているという点では私たちの和歌山下津港を考える際の一つの資料になるかと思いますので、少し紹介いたします。神戸港にしろ、大阪港にしろ、予想どおり貿易量が伸びたとしても新たなバースをつくらなくても十分対応できると、そういうふうに結論しています。そして、地方の大深水バースの整備についても、コンテナ船の大型化を認めつつも、なお、欧米基幹航路の寄港地は主要港では博多以外にわずかしかなく、地方港が水深十四メートルの整備を進めるのは多分に先行投資的ではないかと論じているわけであります。
全体として建設ラッシュで供給過剰の可能性のあることについては大方の一致するところと考えられますが、港湾建設が自治体の思惑から発想されて無政府的なラッシュが生じ、莫大な財政の浪費になる可能性があります。港湾建設は、少なくとも近畿圏あるいは四国東部を含めての広域的な連携、総合的な計画があってしかるべきではないでしょうか。そうでないと、全国的に見れば数百億円の釣り堀がさらにふえることになりかねません。過剰投資ではないか、広域的に港湾建設をすべきではないかという思いを私も抱くものでありますが、当局の見解を示してください。
二番。本港沖の十四メートルバース建設の主要な論拠は、外貿コンテナ船の大型化、神戸・大阪港の過密化、和歌山向け貨物の和歌山港でのキャッチとなっておりますが、先ほど述べたように、神戸・大阪港は十分のゆとりがあります。そういう前提で、問題は四万、五万トン級の船舶が和歌山港を利用するだけの港湾需要を生み出せるかという問題があります。
一つの論拠に、運輸省の予測に八十万トンの潜在需要があるという見通しです。しかし、これには十分の根拠が見出せません。現在の和歌山港でのコンテナの扱い量は年間六千TEUしかなく、大型コンテナ船の一隻分にしかすぎません。週刊「東洋経済」の二月七日号に「せっかく投資したのに取扱量の少ない地方港湾」という記事が掲載されておりましたが、その中に和歌山下津港も残念ながらランクされておりました。
バースの稼働率が統計的にまとまっていないので推定ですが、まだまだ需要にこたえる余裕があるとみなせるのではないでしょうか。そして、目下西浜バースを水深十三メートルで建設されています。コンテナ十五万トン以上がここで陸揚げされるという目算に立ったものですが、稼働率を上げることによってさらに機能を発揮できるものと考えられます。
和歌山港のもう一つの特徴は、輸入に比較して輸出の少なさです。大型コンテナ船であるほどに、往路・復路の貨物の保障が必要となってまいります。帰路の貨物がなければ船舶企業の採算にかかわるからです。それだけのものを保障できる後背圏を和歌山港は持っておりません。
さきにも述べましたように、企業の方に既に地方港の大型バース不要論が出ている中で、生産・消費の大規模な後背圏を持たない地域に巨額な投資を必要とする大規模バースは不必要だと考えるものでありますが、財政難の折から、巨大な港湾施設の建設がさらなる財政難を引き起こす可能性があるのではないでしょうか。港湾課の職員がポートセールスマンになって駆けずり回る姿と、閑散とした巨大バースの風景が脳裏をかすめます。そのようなことは無用の心配、杞憂であると言われるならば、その論拠をお示しいただきたいと思うわけです。
三番。当局の作成した文書の中に、西浜泊地を最大限利用しても、船舶回頭などから水深十四メートル岸壁が精いっぱいであるという文言があります。すなわち、西浜に水深十四メートルバースが可能だということです。しかし、そこには十三メートルバースが建設されつつあります。水深十四メートルが必要なら、そこに当初からその規模のものをつくればよいと素人の私は考えてしまいますが、なぜ十三メートルをまず建設して次に新たに十四メートルというふうになるのでしょうか。十四メートル建設論は、現在建設中の西浜バースの事業化の当初の段階で既に出ていたはずです。むだを重ねることにはなりませんか。
四番。港湾建設をめぐって景観問題も含めてさまざまな議論が起こっているところですが、最も説得力のあるはずの当局の話が、疑問の提出者を納得さし得ていません。提出される情報が少な過ぎるからであります。この際、この港湾計画に至る調査結果の一切と港湾審議会の議事録を公開されることを求めます。審議会について言えば、出席者の固有名詞はあえて必要ではありません。
五番目。私は、県民の多くに疑問を抱かせたまま新しい港湾計画の事業化を望むものではありませんが、当局の意思が別のところにあるとき、一部見直しと事業化へのプログラムを策定されているのではないかと推測をいたします。事業化に向けてどのようなプログラムを持っているのか、明らかにしていただきたいと思います。
なお、この際、残土に一言つけ加えるならば、雑賀崎沖の埋め立てを絶対化しないで、さらなる研究を要望しておきたいと思います。
続いて、同和問題で質問をいたします。
私は、幾度かこの場から、現在進められている同和行政を一日も早く終わらせ、一般地区との間の同和の垣根を取り払うことを訴えてまいりました。それは、今のような行政を続けるならば、わずかに残された問題も解決しないだけでなく、新たな差別を生み出しかねないと考える立場からのものでありました。今回も、改めてそれをただしたいと思います。
一番。当局は二〇一〇年を目標年度とする長期総合計画を策定いたしましたが、その中に改めて同和対策を総合的・計画的に推進していくとして、従来掲げてきた課題をほとんどそのまま列挙しています。そして一方で、新たにこの一月、同和推進プランなるものを策定して同和行政の推進をうたっております。そして、九八年度も九十六億円もの同和関係予算が提案されているところであります。
国が九七年度をもって同和行政を終了させたのは、基本的には同和問題の解決を見たとの判断からでした。残事業の措置も、限定された課題の一日も早い終了を旨としたものでした。それにこたえて、幾つかの町が既に同和行政の終了を宣言し、数多くの市町村が同和対策の終結を準備中であります。来年度も幾つかの市町村が終結を予定しています。
そのような流れの中で、県がどうしてこれから十四年の長期の計画に同和行政を積極的推進の立場から位置づけなければならないのでしょうか。なぜ、わざわざ総合的同和政策の推進プランが必要なのでしょうか。今必要なのは推進のプランではなく、いかに終了するかという終了プランではないのでしょうか。この調子で進めば、際限のない同和行政になってしまう危険を感じます。当局の見解を伺います。
二番。私はこのような当局の態度の根底に、若干の格差イコール同和問題イコール同和行政という考え方があるのではないかと推測いたします。私は、今統計上にあらわれた若干の格差は必ずしもいわゆる部落問題としてだけではとらえられない、現在の政治が社会全体に生み出している矛盾の一つだと考えています。このことは、幾度もこの場で主張してきたところであります。
同和問題での格差の一つと言われる産業の問題、就労の問題などはまさに県下の過疎地域全体に及び、中山間地はコミュニティー自体の成立が危ぶまれるほど深刻なものになっております。学力、進学率の問題でも、いわゆる同和地区全般に及ぶものではなく、ごく特定の地域に限られ、社会全体の問題である単親家庭、生活苦等が基底に流れています。このような問題を同和の視点だけで見るならば同和行政十四年の長期のプランになるでしょうが、視点を変えれば一般行政として全体として底上げしなければならない重要な課題として見えてくるはずであります。いわゆる若干の格差問題を同和の問題としてだけ見るのではなく、全体の問題として広くとらえ、一般行政として施策を広く及ぼす立場に転換されてはいかがですか。そうでないと、ますます逆差別を生む可能性があります。
三番、幾つかの残事業についての取り組みについてお尋ねをいたします。一つは、残事業の中になぜ新しい事業が組み込まれるのかという問題です。
昨年の残事業の中には姿を見せなかった幾つかの共同作業場の問題、あるいは水産同和、農林同和が新たに来年度予算案の中に見られます。また、昨年から問題になり出した和歌山市の二カ所の共同作業場は、和歌山市が周辺の地価とかけ離れた倍近い価格で土地を購入、総事業費六十八億円として進められていますが、協同組合も雇用対策も持たず、予想されたとおり、ストップしたままと聞きます。和歌山市の共同作業場は、あと一カ所を含め、総額八十七億円を超え、周辺からの厳しい批判の声も上がっております。
以上、いずれも県が国との関係で仲立ちをし、みずからも補助金を出しているところです。まだ県とすり合わせの段階だそうですけれども、総事業費十四億円を超える企画も別に進行していると聞きます。まさに際限がないのではないかと、そういう感じを免れません。残事業計画の中になかったもの、ずさんな計画で見通しのないもの、住民が必要としていないものなどは、改めて打ち切りを前提に見直すべきだと考えますが、いかがでしょうか。
子ども会についても、一言触れておきたいと思います。
既にこれについては幾度か申し上げたところでありますが、ある地区だけになぜ子ども会があるのか。子供たちは口にしませんが、年長になると不思議に思っています。ある町の子供たちのバスツアーで、子ども会に参加している子供たちにだけお菓子が配られました。大人たちも説明のしようがなかったと聞きます。
子ども会は周辺地区の子供たちと一緒にやっているところもありますが、何の格差もない子供の世界に同和子ども会のある地域とない地域があるのは子供にとって理解しがたいことです。進学率一〇〇%の地域でも開かれているところがあります。同和地区の子供、いわゆる部落の子供の自覚を強く促す子ども会もあります。いずれにしろ、子供の世界に垣根をつくることは、新たに差別感情を醸しかねません。
そもそも子ども会は、教育委員会社会教育課の指導手引によれば、地区の著しい貧困と生活環境の劣悪さの中でせめて楽しい遊び場を与えたい、学校教育も満足に受けられない子供たちにせめて読み書きの力の補充をとの願いのもとに設立されたのだとされています。
しかし、事情は一変しました。所期の目的は既に達成されています。子供たちの間に垣根になっている、あるいはその可能性のあるものは速やかに取り払うことが差別の残りを除くためにも必要だと思います。そういう思いから、同和子ども会の廃止を決めたところが数多く出てまいりました。県もこの制度を廃止し、市町村のこの機運を促進すべく手だてを尽くすべきだと思いますが、いかがでしょうか。
五番。市町村の同和行政終結に向かう自覚的な動きを県は十分に尊重すべきだという思いから質問をいたします。
先ほどからも申し上げたとおり、市町村の段階で、子ども会を初め同和室の廃止など、各種の同和事業が終結し、終結の道を歩み始めています。終結を宣言した町も数町生まれました。県はそれらの自発的な動きを歓迎されておられますか。必ずしもそうでないような気配が感じられます。とりわけ県と市町村の共同の同和事業などでは、なかなか厳しく存在の方向の指導があると聞きます。県の指導とは、市町村の明らかな法的誤りや余りにも民意からかけ離れているところへの指導や判断しかねているところへの助言などに限るべきで、いやしくも多数の民意のもとで自主的になされている行政については、これは強く尊重されなければなりません。市町村の同和行政終結の動きに対し、その主体性を尊重されるように求めたいと思いますが、いかがでしょうか。
六番。人権と同和啓発について触れたいと思います。
法の終了後、同和啓発が大きくクローズアップされてきました。差別的言辞がわずかであっても存在していることは私も承知しておりますが、しかし、これをもって全県民を対象にした大がかりかつ強力な同和啓発が必要な時代では既になくなったと考えます。特別なことをしなくても、自然な交流がおくれた意識を解消させる時代ではないでしょうか。
元小学校の校長が、「啓発講座に職務上よく出たが、差別の実態が見当たらないときに差別があると殊さらに強調することに違和感を感じた」と述懐をしておりましたが、長期総合計画や推進プランを見てみますと、そのような事態の大規模な再現が起こるのではないかと思われます。
差別に対する無関心層が増大していると、そのような危惧も表明されておりますが、実態を反映して差別意識の希薄になっている状況を無関心と決めつけるのは、逆差別に対する批判をねたみと決めつけるのと似ていないでしょうか。人権問題が同和の視点から、あるいは同和を中心にして語られるのは、国連人権十年の思想にも合致しません。実態に合わない同和啓発の強調よりも、日本国憲法の基本的人権の思想を学び合う環境の提供こそ行政の責務ではないでしょうか。それこそが、わずかに残された差別意識の解消に最も有効な手だてではないでしょうか。見解を聞かせてください。
最後に、教育問題についてお尋ねをいたします。
まず、国の財政構造改革の本県の教育行政への影響についてであります。
国の教育予算は、全体として〇・五%削減されました。結果、教職員定数改善計画の二年間の延長や私学助成の抑制、高校の危険建物改築と大規模改築事業の廃止など、教育条件の整備という国の責務の放棄の面が色濃くあらわれておりました。そのほか、不登校問題に重要な役割を果たしている養護教員やカウンセラーの増員も極めて低く抑えられ、県民の立場からしても歓迎すべからざる状態になっていると危惧するものであります。
提出された一般会計予算案が二・七%の伸びに対して教育予算の伸びは一%で、伸びの中心的なものは医大関係と養護学校建設にとどまり、教育関係の全般には相当厳しいものとなっているのではないかと推測するところでありますが、教員定数を初めとした諸施策にいかなる影響があったのか、また国の措置をいかが評価されているのか、お示しをいただきたいと思います。
二番目。小・中学校の荒れや不登校問題、あるいは学習効果と教員の定数の関係についてお尋ねをいたします。
学校教育の困難がさまざまに語られる昨今であります。学校の荒れ、不登校の問題、学習についていけない三分の一の子供たちの存在、いずれを見ても極めて深刻な問題であります。県下においてもその例を挙げれば切りがないほどでしょう。しかし、それも教育行政上の問題としては、つまるところ学習指導要領や教員定数の問題に突き当たってまいります。指導要領の問題については十二月の議会で中山議員がただしたところですから、私は教職員定数についてお尋ねをいたします。
学級編制基準三十人が、そして差し当たり三十五人が全国的にも教職員や父母の大きな要望となり、県下でも四万四千五百人の署名を添えて陳情あるいは請願をされたところであります。学習の内容の高度化、過密化、子供を取り巻く社会の複雑化、それに対応し切れない子供自身の悩み、教師はそれに的確に適切に対応してゆかなければなりません。
しかし、それも限界に来ているようです。あのおぞましいナイフの事件があった後、あるアンケートに答えた子供たちの声は、「事件を起こした子供の気持ちを理解できる」としたのが八〇%にも達したそうであります。そして教職員の声は、「子供たちの心がなかなかつかめなくなってきた」というのが数十%となっていました。子供の苦しみ、教職員の苦しみがこれほどにもなってきています。学習面でも、生活指導の面でも、子供の一人一人に対応し切れずに教職員は今疲労こんぱいのありさまではないでしょうか。
学級編制基準四十人では対応し切れない現実があります。それはもう、間違いのない事実だと思います。しかし、世界の趨勢は既にその編制基準についてはクリアをしています。イギリスの中学校では三十人、フランスの小学校では二十五人から三十人、西ドイツでは小学校で二十四人、中学校では二十八人、アメリカは小・中とも三十一人となっていますが、アメリカは小学校低学年をことしから十八人とする施策が明らかにされました。
そんな流れの中で、我が国は依然として四十人です。チームティーチングで若干の措置がとられていますが、それすら財政構造改革の名のもとに後年度に追いやられている始末です。父母や教職員が切望する三十人学級あるいは三十五人学級について、教育委員会はどのように考えておられますか。どのような展望を持っておられますか。県独自にどのような努力をされようとしていますか。考えをお示しいただきたいと思います。
さて、来年は生徒の減少に伴い、国の基準に従って本県でも小中学校で百十三人の教員が削減される予定であります。俗な言い方をいたしますが、百十三人分の人件費が浮いてくることになります。教育界の緊要さにかんがみ、この百十三人を削減しないで、緊急度の高いところから三十五人学級に向けて配置できないでしょうか。和歌山県教職員組合の一つの試算によりますと、既にさまざまな形で加配が行われていることを前提にすれば、一年に五十人から六十人を増員すれば六年間で三十五人学級が実現いたします。もちろん、細部の検討は必要でしょうが、貴重な方向を示唆していると思われます。国の負担分を県が負担するという問題は差し当たりクリアできないということであれば、従来の県費負担からだけでも始めることは可能であります。それだけでも六十人近い教員を確保することができます。生徒の減少期にある現在では、学級編制基準引き下げのまたとない好機であります。高知県では、五年間で県単独で三百人の教員をふやす計画だそうであります。我が和歌山県もできないことはないはずです。要は、教育委員会と財政当局が事の緊要性をどう自覚されるかにかかっていると思います。所信を聞かせてください。
次に、同和教育についてお尋ねをいたします。
私は、幾度かこの問題について質問してきたところですが、人権教育が改めて広く提起されているときに当たり、いま一度質問をいたします。
「和歌山県の教育」という教育委員会の手による冊子を見ますと、その冒頭とも言えるところに同和教育方針が掲げられています。教育委員会の同和教育への意気込みがうかがわれるところであります。しかし、この同和教育方針は一九七三年に作成されたもので、以後、二十五年間の歳月と地区の人々、関係団体、行政の努力によって地区は大きく変貌し、同和問題は基本的には解決したと言われる状況になっております。教育方針も、抜本的に見直すときに来ています。しかし、そこにはほとんど変化がなく、二十五年一日のごとく、同和教育が建前どおり進められています。
教育委員会は、学力、進学率の格差の存在を理由にその必要性を主張されていますが、それらの若干の格差もまさにわずかの特定地域に限られ、いわゆる同和地域に広く存在するものではありません。それは、現在社会が生み出した貧困や単親家庭などに起因する社会一般共通の問題であります。
教員の加配については、三十五人学級の先鞭という意味においてのみ評価しますが、いわゆる同和地区だから配置するというのではなく、全県の学力問題を含めて教育困難校へ順次配置すべき時期ではないかと思います。和歌山市内のある同和地区を含む小学校では百五十七人の生徒に対して十五人の教員が配置され、同じ市内の百十九人の学校には前者の半分にも満たない七人の教師しか配置されていないなどというのは現在の同和教育行政の典型的な一例ですが、周辺の父母から理解を得るものではありません。
同和推進教員の役割も既に終了したと、多くの職場では語られる状況になりました。その多数は一般の授業に参加していますが、県教育委員会の指導で同和問題に専任するよう指導があったりして新たな矛盾を生んでいるところも出ています。
あるとき、生徒が学校で習った賎称語を、全く他を差別する意図もなく使用したことに対して、それが学校の大問題となり、全教員に伝えられ、同和委員会、市教委、PTA会長、地区同和推進協議会会長、子ども会会長に伝えられ、生徒に対しては担任教師、学年担任、同和推進教員、校長からの事情聴取と指導が行われ、生徒の父母には啓発が行われ、その間、学校内外で幾度となく会議が行われ、最終地域の同和推進協議会学習会で報告されることになりますが、この間、二十日の間に、日曜も含め十六日間はこの問題にかかわる何らかの取り組みが行われました。簡潔に率直に指導すればよいことに、こんな事態になってしまいました。そして、同和教育はかくあるべしということになっています。これが一つの実態であります。どうお考えでしょうか。
教育委員会の社会教育講座というものがあります。一九九五年の統計ですが、それはこの年に六百六十四回開催され、約九万八千人の受講者がありました。しかし、このうち同和関係講座が五百七十六講座、割合にして八七%、参加者九万四千人で、その割合九六%となっており、圧倒的に同和関係講座が占めています。社会教育は多角的に行われていますので、この講座だけで評価するつもりはありませんが、少なくともこの分野においては著しくいびつになっています。
私は、従来からの同和教育の成果を高く評価をしているものでありますが、しかし、現在、以上幾つかの例を語りましたように、同和教育という教育━━━━━━━━をいつまでも固定化させておくことは、身分差別の残りを一掃する上で障害になっている面が生まれていると思います。現段階では、人権を同和の視点から発想するのではなく、憲法と教育基本法の立場から幅広く学び合うことが正道であろうと思います。そうすることこそが、身分差別の残りを一掃する力を子供たちにも大人たちにも育てる最短の道であるとも考えるわけです。
子供の世界全体に、教育上、実に深刻な問題が渦巻いています。いわゆる同和地区と一般地区との格差だけをクローズアップする立場を排して、全体に厚く対応しなければならない時期に来ていると思うわけであります。そういう立場から、同和教育の制度自体も廃止する時期に来ているのではないかと思いますが、教育委員会の答弁を求めて、私の第一回目の質問を終わります。
○議長(木下秀男君) ただいまの鶴田至弘君の質問に対する当局の答弁を求めます。
〔「議長、議事進行。47番」と呼ぶ〕
○議長(木下秀男君) 47番和田議員。
○和田正人君 ただいま鶴田議員から、同和問題に関連をして、幾つかの質問、ご意見、また提言がございました。
我が和歌山県は、同和問題の課題の多い中で今日まで、満点と言えないまでも、先進県としてその解決のために努力を続けてきた歴史があります。
ちょっと、耳が悪くて聞こえなかったのかもわかりませんが、その発言の中に、特に教育問題に関連をして──同和教育のところでございます。「ザンサイ」という表現を使われたのか、「ザンシ」という表現を使われたのか。もし「ザンサイ」ということであれば、彩りを残すという言葉も漢字で書けます。しかし、発言の趣旨からいけば、「残りかす」という意味の「残滓」という字になります。もしそうであるならば、今日までの歴史、そして努力の評価が大きく変わるというふうに受けとめました。
そういうことで、私は、自分の聞きようが間違っていたのかどうかわかりませんが、ご提言のあった内容で確かに傾聴する部分もございました。そういう意味で、「残滓」という言葉がそのままこの議場で認知をされるということであれば、大きくその評価が変わる部分もございます。
そのために、あえて議事進行として、ただいまの鶴田議員の議事録精査、そしてその発言内容がどうであったのか、私の聞き間違いであれば私の誤りとして、鶴田議員にあえて議事進行をかけたことを謝らしていただきます。しかし、そういう「残滓」という表現でもし使われていたとすれば、同和問題に対して大きな問題点を提起することになりかねませんので、議長の取り扱いでよろしく善処をお願いしたいというふうに思います。
○議長(木下秀男君) この際、暫時休憩いたします。
午前十一時十二分休憩
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午後三時十七分再開
○議長(木下秀男君) 休憩前に引き続き、会議を開きます。
○議長(木下秀男君) 都合により、この後の議事は明日に譲り、明日も定刻より会議を開きます。
○議長(木下秀男君) 本日は、これをもって散会いたします。
午後三時十八分散会