平成22年2月 和歌山県議会定例会会議録 第5号(尾崎太郎議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

  午前10時0分開議
○副議長(坂本 登君) これより本日の会議を開きます。
 日程第1、議案第1号から議案第16号まで、議案第31号から議案第46号まで、議案第48号から議案第59号まで及び議案第61号から議案第83号までを一括して議題とし、議案に対する質疑を行い、あわせて日程第2、一般質問を行います。
 19番尾崎太郎君。
  〔尾崎太郎君、登壇〕(拍手)
○尾崎太郎君 議長の許可を得ましたので、一般質問をいたします。
 我々自由民主党は、国民の信を失いました。前回の登壇で、これは我が党が保守政党たるアイデンティティーを喪失したことによると述べました。政権政党の座をおりたことは残念ではありますが、そのこと自体は立憲政治の常道であり、むしろ我が党が本来のあり方に回帰するには好機ではないかと考えておりましたが、民主党政治の余りの惨状に、一地方議員にすぎないとはいえ、国の行く末を思えば、政権を失った悲哀より、陛下と国民に対する申しわけなさでいっぱいであります。
 「和歌山のため、国のため、一生懸命頑張ります」などと、左右を問わず選挙に出る者はよく叫びますが、民主党政権に歯どめをかけなければ、肝心の国がなくなってしまう、笑うに笑えない状況に陥ることは間違いありません。何となれば、彼らの頭の中にあるのは日本国民ではなく、ニュートラルな市民であり、我々の祖先が営々と築いてくれた、我々が相続し、子々孫々に継承していくべきかけがえのない祖国日本ではなく、単なる居住地としての地域だからです。
 このような思想はマルクス主義に特徴的であり、菅副総理や輿石幹事長代行など、もともと左翼陣営にいた人ならばともかく、曲がりなりにもかつては保守陣営にいて自主憲法制定を唱えていた人までもが、こぞって自国の歴史を嫌悪し、皇室をないがしろにし、日本国民の一体感、紐帯を断ち切り、国民精神を瓦解せしめることに殊さら熱心なのはなぜなのか。
 かつて、我々もまた、社会党と連立を組むという愚を犯しました。これが今日の自民党の衰退を招いたことは、以前述べたとおりであります。党内左派の一部に社会党にシンパシーを感じていた者がいたにしても、政権に目がくらみ、お互いに渋々手を結んだのが実態でありましょう。
 民主党内のかつて保守陣営にいた者たちも、やはり政権のために左翼勢力を渋々受け入れているのでしょうか。小沢一郎氏は、輿石氏や横路氏と、本心には反するが政権交代という大義のためにやむを得ず手を組んでいたのでしょうか。
 私は、違うと思います。小沢氏にとって、実は保守こそが仮面であったと思うのです。党における、いや、日本における政治権力のすべてを掌握せんとする今、彼はいよいよその本性をむき出しにしつつあるように思われるのです。
 ある人はまた、小沢氏には特定の主義はない、権力の獲得に役立つ主義を主張するだけだと言います。本来、ある目的のため権力は行使されるべきものですが、権力の行使自体、魔性の快感を伴うため、それが自己目的化することも往々にしてあることであり、なかなかに説得力のある見方であります。
 なるほど、小沢氏の権力と金に対する執着には並々ならぬものがあります。自民党の金権体質を批判し党を飛び出しておきながら、みずから導入を提唱していた政党助成金を巧妙きわまる手法で取り込み、出どころの怪しげな金を政治資金として洗浄し、その金で巨額の不動産を購入、さらにはそれを他人に貸し収益まで得る。20億円を超える虚偽記載を単なる形式犯だと言い張り、秘書2人が逮捕されれば検察に難癖をつけ、自分が不起訴となるや一転、検察によりみずからの潔白は証明されたとうそぶく。国民の大多数は、小沢氏の説明に納得するはずもなく、幹事長を辞任すべしとしていますが、全くどこ吹く風、恬として恥じず、居直りを決め込んでいます。権力に対する執着、実に並々ならぬものがあります。あっさりと副総裁の座をおりた金丸氏や、選挙に負ければ潔く身を引いてきた歴代自民党総裁と比べても、異常であると言えるでしょう。もっとも金丸氏は、権力の座をおりた途端、脱税で逮捕されましたから、小沢氏はそれを教訓としているのかもしれません。
 かつて野中広務氏は、悪魔と呼んだ小沢氏が率いる自由党と連立を組むため、ひれ伏してでもと言いました。多数決原理に基づく民主主義では数は力であることは一面の真理なのですから、希代の実務政治家であった野中氏からすれば、個人的な嫌悪感はこの際抑えてということだったのでしょうが、合従連衡は政治家の常、古今東西、政治とはそういうものであると言えなくもありません。
 しかし、小沢氏は、輿石氏の手は喜々として握ったのではないか。輿石氏と小沢氏は非常に深いところで共鳴しているのではないか。小沢氏はむしろ、民主党内の保守色のある連中には、つくり笑顔で手を差し出していたのではないか。その連中も、今や、我先にと小沢氏の手をとるというより足元にひれ伏しているような状況であり、もはやつくり笑顔は必要ないようです。
 鳩山首相と小沢氏は、全くの利害損得での結びつきでありましょう。鳩山氏の小沢氏嫌いはよく知られていました。かつて彼は、小沢氏をこう評しています。「自分の主張を遂げるために、民主主義の基本原則を超越、無視してきた部分があって、信奉者が離れていった」。もっとも、鳩山首相はまさに宇宙人、「日本列島は日本人だけのものではない」などと言うのですから、とてもまともな保守政治家であったとは言えませんが、「私見ではありますが、私個人としては憲法を改正し、日本は天皇を元首とする民主国家であるとしなければならないと思います」と発言するところを見れば、宇宙人のほうが無国籍人よりはまだましではあります。
 小沢氏が隠れマルキストであることは薄々勘づいていましたが、習近平中国国家副主席来朝の際における、氏の余りにも傲慢な態度を見て確信いたしました。日本国民ならば持っている、ごく自然な皇室に対する敬愛の念が、彼にはみじんも感じられません。2000年にも及ぶ歴史を持つ皇室は、あらゆる高貴なるものの源泉となるもので、それはあたかも生命をはぐくむ大自然のごとくであり、普通の日本国民は人為的にそのあり方を左右することができるなど、ゆめ思いつくことではありません。
 たとえ現実政治の中で、合従連衡、手練手管の限りを尽くし、権力闘争に明け暮れることが習い性であるにしても、いや、むしろそれゆえに、いやしくも我が国の歴史と伝統を重んじるというのであれば、我が国の歴史と伝統そのものである皇室に、あれほど無礼な物言いなどできるはずはないではないですか。できるとするならば、彼は日本の歴史、伝統を憎悪するマルキストにほかならないのです。
 戦前戦中、帝国陸海軍にはマルキシズムがしょうけつをきわめました。大東亜戦争の敗因は、実にここにあるとする研究者もいます。エリート将校たちは、自分たちが理想国家を制度設計できると考えました。彼らは天皇をいただく共産主義者、社会主義者であったのです。ただし、彼らの天皇は、エリートである彼らがそのあり方を規定するのです。「エリート」を「選挙で選ばれた」と置きかえれば、その考え方は小沢氏そのものであります。
 海軍革新将校による五・一五事件や陸軍革新将校による二・二六事件はそのあらわれでしょうし、敗戦により国土が荒廃し、国民生活が破綻すれば、むしろ革命が容易になると夢想する勢力すらもかなりあり、彼らは大戦末期、米国に先んじてソ連に我が国本土を占領させるべく暗躍していたようです。
 米国ですらあっと驚く高官がソ連と通謀していたことがソ連の崩壊に伴う機密文書の公開で発覚していますが、マッカーシーのいわゆる赤狩りは、京都大学大学院教授の中西輝政先生らによって我が国でも再評価されてきています。たとえソ連の直接的な協力者ではなくとも、マルクスにかぶれていた陸海軍将校は想像をはるかに超えて多かったのです。
 李登輝閣下にお会いしたとき、閣下もまた、若いころマルキシズムに冒されそうになった、危なかったとおっしゃっていましたが、閣下にしてこれですから、マルキシズムの恐るべき伝染力、推して知るべしであります。
 東京大学教授の長谷部恭男先生と法政大学教授の杉田敦先生との対談が、1月6日の「朝日新聞」に出ていました。長谷部先生は大学時代の憲法の先生でしたが、おちゃめな先生で、講義はおもしろく、人気がありました。今や先生は、我が国の憲法学会を代表する学者になっておられます。
 先生は言います。「重要な国の要人だから会ってほしいというのは、天皇を単に利用価値のある手段としてしか見ておらず、結果的に天皇ないし皇室独自の価値や尊厳を掘り崩してしまう。それは、天皇を利用価値がある、値段がついたものとして見る議論です。役に立つか立たないかの問題として考えないから、天皇には尊厳が備わるのであり、尊厳があるから国の象徴たり得るのです」。
 全くそのとおりでありますが、さらに言うならば、小沢氏はまさに皇室に値段をつけた。もし皇室に値段がつかなくなれば──あくまでも小沢氏にとってでありますが──彼は皇室廃止を唱えるのにちゅうちょしないでありましょう。なぜなら彼は、選挙により国権の最高機関たる国会を支配している自分の意思は、主権者たる国民の意思であると信じて疑わない精神の持ち主だからです。
 物議を醸した昨年12月14日の記者会見で小沢氏は「天皇の国事行為は内閣の助言と承認により行われる。勉強しなさい」と記者に居丈高に説教していましたが、憲法7条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」とあり、国事行為を列挙しています。外国の大使及び行使を接受することは国事行為ですが、一般に外国賓客を接遇することは公的行為とされており、国事行為には当たりません。勘違いはだれにでもあり、無学はお互いさまですので、それ自体を批判するつもりはありませんが、天皇もまた選挙で選ばれた自分に服すべきであるとの小沢氏の思想が透けて見えた場面でした。
 この記者会見に先立つ2日前、小沢氏は韓国で公演を行っています。今は便利な時代で、You Tubeでその模様を見ることができますが、何と彼は、「神武天皇は朝鮮人だ」と言うのです。その根拠は、江上波夫先生の騎馬民族征服説であるとしています。なるほど、江上先生は著名な考古学者ではありますが、この説には有力な反論が山ほどあり、とても小沢氏が言う「多分歴史的事実」というようなものではありません。
 たしか中学生ぐらいのときに、渡部昇一先生の講演会で、若き日の渡部先生が江上先生に「日本の神話に馬に乗った神様が出てこないのはなぜですか」と質問したところ、江上先生は「そうだったかな。出てこなかったかな。困ったな」と絶句していたと聞きました。中学生にもなるほどと思える話でありました。大家の説といえども、それだけで頭から信じ込むことは愚かであると、そのとき学んだのであります。
 繰り返しになりますが、無学はお互いさま、小沢氏が考古学に暗くとも批判する気にはなりませんが、彼の発言は、無学をさらけ出したというよりは、韓国の歓心を買うため自分が聞きかじった話を適当に利用したということなのでしょう。そこまでして韓国におもねる理由は何なのか。単なるリップサービスであったのか。小沢氏にとっては、天皇は他国の御機嫌取りの道具として利用できればそれでよいとする程度の存在にすぎないのであります。あるいは小沢氏は、意図的に皇室をおとしめているのかもしれません。なぜなら、マルキシズムの天敵は、長い歴史を持つ権威の体現者たる君主であるからです。
 韓国民団がさきの衆議院総選挙において民主党を支援したことは、広く知られています。彼らの応援が民主党の勝利に大いに貢献したことは、民主党の多くの議員が語っています。
 このような状況下において、小沢民主党幹事長は、永住外国人への地方参政権付与を韓国で約束してきているのです。民主党は、総選挙におけるマニフェストにおいては、永住外国人への参政権付与について明記しておりません。
 赤松農水相は、本年の韓国民団の新年会において、「鄭進団長を初め民団の皆様には、昨年、特にお世話になりました。今農水大臣ですが、その前は選対委員長をやっていたもんですから、全国各地で皆さん方、投票いただけませんが、いろんな形で御支援いただいた。それが308議席、政権交代につながったと確信いたしております。心から感謝申し上げます。その意味で、公約を守るのは政党として、議員として当たり前のことですから、この政権の中で民主党の与党の強い要請のもとで、この通常国会、必ずこの法案──永住外国人の参政権付与法案ですが──を成立させ、皆さん方の期待にこたえていきたいと思います」とあいさつしています。
 政策インデックス2007には永住外国人への地方参政権付与について書いてあると言いますが、それではなぜ、今国会で閣僚が必ず通すと意気込む法案をマニフェストに書かなかったのか。それほど重要な法案であれば、政策インデックスにも書いて、マニフェストにも書けばいいではないですか。それは韓国国民との約束であるから、日本国民との約束であるマニフェストには書かなくともよいとでも言うのでしょうか。
 この法案は、間違いなく我が国を亡国に至らしめるものであり、日本国民でありながらこのような法案を推進しようとする者は、マルキシズムに侵された者以外ありますまい。特に、日本の永続を願わない外国人は、無論この限りではありませんが。
 去る2月9日、全国都道府県議会議長会主催の永住外国人の地方参政権についての各政党との意見交換会が東京のグランドアーク半蔵門ホテルで開催され、本議会からは冨安議長、吉井議員、前芝議員、花田議員、私の5人が出席をいたしました。各政党の代表は、民主党から今野東民主党副幹事長、自民党からは山谷えり子参議院議員、公明党からは東順治党副代表、共産党からは井上哲士国会対策委員長、社民党からは服部良一党自治体担当常任幹事、国民新党からは亀井郁夫党副代表でありました。
 我が党と国民新党以外の政党の国会議員は皆この法案に賛成なのですが、出席していた地方議員は反対、あるいは拙速な法案提出には反対とする者が大半で、会場は異様な熱気に包まれていました。当日は混乱も予想されたのか、事前にアンケートで意見聴取する形式をとっており、議長以外の出席者の質問、意見表明は制限されていて、残念ながら発言の機会はなかったのですが、賛成派の国会議員の発言中はやじが飛び交い──私も微力ながら参戦をしておきましたが──この法案を進めようとする国会議員と、この法案を阻止しようとする地方議員の戦いのように感じたのは私だけであったでしょうか。
 全国都道府県議会議長会は、この意見交換会に先立つ1月21日、永住外国人への地方参政権の付与について、拙速に法案提出されるべき案件ではなく、地方の意見を十分聞くように強く求める旨、決議しているところです。この法案の真のねらいは日本解体にあることは明白でありますが、法案の実態を知らない国民が耳当たりのよいへ理屈に幻惑されて、安易にこの法案に賛意を示すこともあるようですので、一応論破しておきたいと思います。
 まず、地方と国を峻別できるとする幼稚きわまりない考えでありますが、国は地方を寄せ集めたものではありません。国は地方を規定し、地方は国に影響を与えます。国と地方は相互に依存し、密接不可分な関係であり、あたかも人の体のごとくであります。人は、頭が人でしょうか、手足が人でしょうか、目が人でしょうか。体の部分部分はそれぞれ単独に存在するものではなく、人を成り立たしめるある原理のもとに統合されつつ、人はまた部分に依存しなければ存在し得ないのです。したがって、参政権を地方と国とに分けて考えるのはナンセンスです。
 現実的にも、例えば災害対策基本法は、拒否すれば加罰すらできる徴用、徴発の権限を知事に与えていますが、このような総理大臣にさえない強大な権限を握る知事の選任に外国人がかかわるなど、あってはならないことであります。ともすれば地方行政をサービス業ととらえる向きがありますが、適当ではありません。サービス業としての一面も持つものの、地方行政は純然たる統治行為なのです。
 憲法15条1項は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定め、93条2項は「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」と定めています。
 平成7年2月28日の在日外国人の参政権問題の最高裁の判決では、「国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味する」、「地方自治体について定める憲法93条2項に言う『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味する」としています。参政権は日本国民固有の権利である、93条2項に言う住民とは日本国民のことである、ゆえに外国人に地方参政権を付与することは憲法違反であるとなり、論理的にこれ以外の結論に至ることは不可能です。
 ところが、いわゆる傍論部分で、「法律をもって選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である」、「右のような措置を講ずるか否かは専ら国の立法政策にかかわる」としており、論理的に破綻しています。
 民事訴訟法第312条6項は、食い違いがある判決は判決たり得ないとの定めですが、最高裁自身が論理的に破綻した判決を下すというのはどういうわけなのか。そもそも、国の立法政策に対する制限が憲法なのであるから、憲法が禁じた立法が可能とはどういうことなのか。この傍論はまさに暴れる「暴論」でありますが、推進派を勢いづかせたことは間違いありません。
 しかし、2月19日の「産経新聞」に、衝撃的な記事が掲載されました。この判決を下した園部逸夫元最高裁判事が、判例拘束力のない傍論部分で外国人に地方参政権を付与することが憲法上禁止されていないと判断したことについて、「在日韓国・朝鮮人をなだめる意味があった。政治的配慮があった」と明言したというのです。
 これは一体どうしたことか。最高裁が政治的配慮をするとは、三権分立の精神はどこへ行ったのか。しかも、論理的に破綻を来した傍論の根拠が「無理やり連れてこられて」云々であるとは、やはり無学はお互いさまとはいえ、最高裁判事たるもの、俗説に惑わされることなく、まともに歴史を勉強していただきたいものです。
 しかしながら、判決に政治的意図があったにせよ、それを告白するのは相当の覚悟が要るはずです。今このタイミングでの告白は、特別永住者のみならず一般永住者にまで参政権付与をする民主党案が通れば、さすがに国を危うくするとの判断でしょう。ちなみに、園部元判事は、平成9年には傍論を重視するのは俗論であると正論を吐いています。
 1月29日の「産経新聞」には、外国人に地方参政権を付与できるとする参政権の部分的許容説を日本で最初に紹介した長尾一紘中央大学教授のコメントが掲載されています。参政権付与法案について「明らかに違憲。鳩山由紀夫首相が提唱する東アジア共同体、地域主権とパックの、国家解体に向かう危険な法案だ」と述べ、現在反省しているとのことであります。過ちては改むるにはばかることなかれではありますが、長尾先生の学説は、かの芦部信喜が支持したのです。国家存亡のとき、長尾先生の勇気に心から敬意を表したいと思います。
 実は、大学時代、憲法の講座は2つあり、1つは長谷部恭男先生でしたが、もう1つは芦部信喜先生でありました。芦部先生は、学習院大学の法学部教授時代、既に我が国憲法界の重鎮で、早稲田や中央、東大の友人がその講義を聞きに来るほどの人で、司法試験の憲法の基本書といえば芦部憲法にとどめを刺すと言われています。
 芦部先生は、平成6年に長尾説を引用して参政権付与部分的許容説を支持しています。江上先生は古代史を語るには外せない記紀に合わない学説を主張し、芦部先生は提唱者がこれを撤回するに至る学説に依拠して自説を述べられました。やはり、いかに大家といえども妄信をしてはなりません。
 また、納税と参政権は全く関連性がありません。世界最高水準の暮らしやすさを実現している我が国に居住する外国人は、納税に見合う反対給付を十分に受けていると言えます。また、参政権を納税にかからしめることは、普通選挙制度を根幹から揺るがしかねません。
 人のいい日本人に外国人の参政権を認めさせようとすれば、難しい法理論で説得するよりも、他民族共生社会実現のためとかいう、一見すばらしそうなスローガンが一番有効でしょう。「みんな仲よくやっていこう」は、憲法よりもよほど心に響くのです。実は、これが一番厄介であります。しかし、「愛している」などと軽々しく言う男ほど信用できないではないですか。「友愛」などと、一人前の男がよく言えるものであります。保守政治家はこのような言説に対抗できる言葉を持たなければなりません。
 私は未熟ゆえ、そのような言葉を紡ぎ得ませんが、人為的に政策をもって他民族共生社会などが実現できるはずがないことは、今日の国際社会を見渡せば明らかであります。友愛は、現実には何をもたらすのか。
 高校地理歴史の新学習指導要領解説書は、領土問題の記述で竹島を明記しないことになりました。せっかく一昨年、中学校の指導要領解説書に竹島が盛り込まれたにもかかわらず、まことに残念であります。これもまた、韓国への友愛でありましょうか。
 北海道教職員組合による違法献金事件では、幹部4人が逮捕されました。組合は、金まで丸抱えで民主党議員を当選させ、何を画策していたのか。北教組が組合員の教師に配布した職場討議資料「北教」にはこう書かれています。「文科省が中学校の歴史の解説書に『竹島(独島)の領有権』を明記したことは、侵略、植民地支配を日本が正当化する不当きわまりないものになるのです。歴史事実を冷静にひもとけば、韓国の主張が事実にのっとっていることが明らかなだけに、事は極めて重大なのです」。
 国は、実体的には国土と国民によって成り立っています。国土なくして国は成立しないのであり、国土の揺らぎは国のアイデンティティーの喪失に直結します。したがって、国家は領土問題においてはいささかの妥協も許されません。反対に、国家の溶解をたくらむ者にとっては、領土問題に対する国民意識を低下させることは最も効果的な戦略となるのでしょう。竹島を忘れるとき、我々は日本を喪失するのです。
 ヒトラーの率いたナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党。ヒトラーは暴力革命を起こして政権を掌握したわけではありません。当時最も民主的であると言われたワイマール憲法下で行われた何度かの選挙の結果、ナチスは第1党となり、ヒトラーは首相となって、やがてドイツ国会は全権委任法を可決させ、形式的には合法的に独裁は成ったのです。
 実は、民主主義は独裁政治と親和的であります。民主主義への無邪気な礼賛は、容易に独裁政治を生み出します。その一里塚である権力の集中は、いつの時代もいつの世も、改革と効率化の美名のもとで行われていくのです。
 現在の民主党の小沢氏への権力の集中の様子は、あたかも大津波の前に潮が引いていくがごとくであります。立法府の一員である議員に立法活動を禁じ、1年生議員には選挙活動だけを許し、もって自由であるべき議員の政治活動を制限し、政調会を廃し、事務次官会議を廃し、人事を握り、金を握り、極めて効率的に主権者たる国民の意思、すなわち小沢氏の意思がストレートに国政に反映させる仕組みができつつあります。
 彼が支配する民主党議員や官僚に要求することは、日本支配が完成したとき、必ずやこれを国民に要求するでありましょう。既に国民の陳情は、民主党幹事長室に一元化されてしまいました。
 伝統や慣習にとらわれず、道徳に縛られず、人間関係のしがらみを意に介さず、煩雑な手続から解放され、理性的に、合理的に国民から委託された主権を存分に行使する民主集中制。完全な権力の集中が成ったとき、潮が極限まで引き切って、何も知らない国民が魚を拾おうと喜んで浜におりたとき、全体主義の波は一気に我が国を覆うことでしょう。そして、恐ろしいことに、小沢ユーゲントたちが喜々として小沢氏に従っているがごとく、国民もまた小沢氏を神のごとく仰ぎ見るようになるのです。
 ところで、陛下への習近平国家副主席の謁見が行われた昨年12月15日、鳩山首相は普天間基地移設問題の先送りを決めました。目に見えない亀裂が日米同盟に入ったことは間違いありません。日英同盟の発展的解消と目された4カ国条約が何の役にも立たなかったごとく、日・中・米の正三角形など、国益の観点から何の意味も持ち得ないでしょう。立憲政治と自由主義経済という価値を共有する英、米との離反が大東亜戦争の悲劇を生んだことを忘れてはなりません。この点については、機会があればまた論じたいと思います。
 世界の覇権国である米国は、なるほど時に傲慢ではあります。しかし、陛下との謁見時におけるオバマ大統領と習近平氏の態度の違いを見れば、我が国がどちらをより重視すべきか、おのずとわかろうというものです。米国と我が国は、基本的な価値は共有できるのです。
 マスコミでは、小沢氏を最高実力者などと呼んでいます。政権与党の幹事長がすなわち最高実力者ではないことは明らかですので、「最高実力者」は小沢氏の独特な立ち位置をあらわす言葉であります。そういえば、鄧小平も最高実力者と呼ばれていました。
 幸い、一連の政治資金規正法違反事件は小沢氏のカリスマ性をある程度ははぎ取り、例の記者会見では彼の本性が露呈されました。しかし、油断してはなりません。小沢氏の日本改造計画──これはかつての小沢氏の著作名ですが──を何としてでも阻止し、幾世代にもわたって相続してきたかけがえのない祖国日本を守らなければなりません。
 「政治というものは、何らかの新しい社会を創造することでも、既存の社会を抽象的な理想に合致させるべく改造することでもない」とは、英国の政治哲学者オークショットの言葉です。伝統のしっくいに呻吟し、義理・人情に絡めとられ、道徳の前に恥をさらし、煩雑な手続をのろいながら、私は今後とも政治と向き合っていきたいと思います。
 そこで、知事にお尋ねいたします。
 永住外国人への地方参政権の付与についてどのように考えるか。民主党幹事長室への陳情の一元化について、行政官としてどのように考えるか。また、政治家としてはどのように考えるか。
 以上、お尋ねして一般質問といたします。(拍手)
○副議長(坂本 登君) ただいまの尾崎太郎君の質問に対する答弁を求めます。
 知事仁坂吉伸君。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) まず、永住外国人への地方参政権の付与についてお答え申し上げます。
 この問題は、地方自治体レベルの政治に参加する権限に関する議論であって、国政レベルとは切り離して考えればよいという意見も一部にあるようでありますけれども、私は、参政権は憲法に基づき国民に付与されたものであり、国民とは何かという国家のあり方の根幹にかかわる問題でございますので、地方参政権であっても、そのあり方については国民的な議論が必要だと思います。
 現時点では国民の間で熱心な議論が行われているとは言いがたいと思いますので、政府におかれては十分に世論を喚起されてから判断されるべきだと考えております。
 次に、陳情の一元化についての御質問でありますが、私はこれまで、単に国にお願いをしてくればいいという安易な考え方で行動したことはありません。和歌山にとって大切な事柄を実現しなければならないような場合には、それが国の責務である場合はもちろんのこと、地方の立場からの提案としても、最も効果的なタイミングで、かつ明確な根拠をそろえて論理立てて説明することを心がけております。県民を代表して国と議論をするというスタンスで行動してまいりました。
 したがって、今後とも、本県の利益が損なわれるおそれがある場合、あるいは本県の利益をぜひ実現したいという場合には、国への働きかけを行う必要があると考えております。その場合に、御質問のように、国のほうで一定の手続をとってくれというのでありましたら、その手続にのっとって対応せざるを得ないと考えますけれども、現状のようにルートを統制するということは、私は余り好ましいことではないと考えております。余り統制的なことをすると、当然反発も生ずるでしょうから、決めたほうが損をすると私は考えます。
 ただ、個人的には、そういう手続によって、自分自身、和歌山県知事が特に面会を妨げられたというようなことはありませんし、民主党の幹部にも、知事は大いに議論してくれと言われております。また逆に、そのようなことがあったら、すなわち妨げられるようなことがあったら県民が許さないと思います。今後も県を代表して、県民の意見を堂々と主張してまいらなければならないというふうに考えております。
○副議長(坂本 登君) 答弁漏れはありませんか。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(坂本 登君) 再質問を許します。
 19番尾崎太郎君。
○尾崎太郎君 質問の中で申し上げましたけれども、地方というのは、もちろん国というものがなくて成り立つものではないわけでありますから、地方のリーダーとしては国のあり方に言及をするというのは、ある意味で当然の責務ではないかと思うんです。地方参政権の問題にかかわらず、東京の石原知事や大阪の橋下知事は、国に対して積極的に提言を、あるいは苦情を述べておられるとこでありますけれども、この外国人の地方参政権についても、何人かの知事は積極的に反対を表明しておられると思います。
 これは、日本という国を崩壊せしめて、もっては我々の住む地域社会にも甚大な影響を及ぼすことは間違いないと思いますから、知事におかれてももう少し積極的に発言をいただければなあと思うところであります。
 また、地方の陳情の窓口の一元化ということでは、和歌山の知事ですから、和歌山の陳情を戦略的にどう通していくかという観点からいろいろ思い悩むことは当然でありますし、また我々とは少し立場が違うということも理解をいたしますけれども、このことも言いにくそうにではありますけれども、余り好ましくないとおっしゃってるわけでありますから、問題点はこの点については私どもと共有はできているのかなと思っております。
 この問題にかかわらず、仁坂知事も積極的にこれからも国政に対して物申す知事であってほしいと要望いたしまして、質問を終わります。
○副議長(坂本 登君) ただいまの発言は要望でありますので、以上で尾崎太郎君の質問が終了いたしました。

このページの先頭へ