平成20年12月 和歌山県議会定例会会議録 第3号(尾崎太郎議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

 質疑及び一般質問を続行いたします。
 18番尾崎太郎君。
  〔尾崎太郎君、登壇〕(拍手)
○尾崎太郎君 議長の許可を得たので、一般質問をいたします。
 自由民主党青年局の海外研修が、ことしは韓国で行われました。和歌山県連からは須川倍行議員、藤山将材議員、私が参加をいたしました。当初は、李明博大統領を初め各界要人との面談が予定されておりましたが、竹島問題が再燃し、韓国側からすべての面談をキャンセルするとの通知がありました。戦没者に対する我々の献花までも拒否するということで、我が党青年局でも研修先を変更したほうがよいのではないかとの意見も出されましたが、こんな時期だからこそ、かの国を訪れ、言論の自由という価値を共有する隣邦として、互いの立場を尊重しつつ堂々と議論し、もって真の友好をはぐくむべきであるとの意見が大勢を占め、実施される運びとなりました。
 訪韓に先立ち、外務省の方から竹島問題について簡にして要を得た講義がありました。テキストは「竹島問題を理解するための10のポイント」というよくまとまった冊子で、竹島は我が国の固有の領土であることがよくわかります。領土をめぐる紛争は安全保障にかかわる問題であり、政府は国民にその実態や自国の主張を周知させる義務があります。義務教育はその義務を果たすべき場であり、これを放棄することは許されません。
 今回の騒動は、教科書の記述に対してではなく、平成24年度から採用される中学校の新学習指導要領に対してでもなく、その解説書を問題としているのです。「竹島問題を理解するための10のポイント」は、外務省のホームページに、英語、韓国語でもアップされています。韓国は、我が国が竹島の領有を世界に向けて主張するのはよいが、国民に教えるのはまかりならんとでも言うつもりなのか、内政干渉も甚だしい、無礼だと一喝すれば済む問題であるのに、文部科学省は「固有の領土」という文言を「我が国と韓国との間に竹島をめぐって主張に相違があることにも触れ」といった表現に改めています。これでは、到底、領土を不法占拠されている当事国とは思えない第三国的な解説になってしまっています。教育基本法で不当な圧力には屈しないとうたいながら外国からの不当な圧力にはすぐ屈するのであれば、何とも情けない話であります。
 学校教育は、国民意識の形成に絶大な影響のあるものです。後ほど触れますが、トルコ国民が120年前のエルトゥールル号遭難時における本県串本町の人々の献身的な救援活動を忘れずにいてくれたのも、トルコがこのことを学校で教えていてくれたからで、トルコ国民の親日の情は少なからずここから来るものでありましょう。
 国民が殊さら竹島に関心を持たなくなってしまえば、政府がたとえどのような主張をしようとも、もはや竹島は我が国の領土ではなくなってしまいます。主権者たる国民に領有の意思がないのなら、竹島に我が国の主権が及ぶべくもありません。
 韓国側の騒ぎ方は常軌を逸したもので、日の丸を燃やす、卵や日本の国鳥であるキジを食いちぎり、大使館に投げ込む、果ては駐日大使を事実上召還するという、まさに官民挙げての大騒ぎでありました。我々も何とか韓国の若い世代の政治家たちと冷静なディベートができないかと打診してみたのですが、残念ながらとてもそんな状況ではありませんでした。訪韓団のメンバーからは、この騒動で天皇陛下の御真影を焼いたとの情報があるが、事実であるならば断固抗議すべきであるとの意見が出され、駐韓大使に確認したところ、福田総理の写真は焼かれたが、陛下の御真影は韓国の警官が群衆から取り上げたと聞き、福田総理のならまあよいかとなりました。韓国のこうした行動は、怒りよりもむしろ哀れを感じますが、だからといって事なかれ主義は将来に禍根を残すことになります。
 今日の竹島問題というのは、1952年1月18日、李承晩大統領がいわゆる李承晩ラインを一方的に引くまで存在しませんでした。国際法を無視したこの暴挙を、彼らは1905年(明治38年)、日本が独島(竹島)を閣議決定して島根県に編入したのは、事実上、日本の支配下にあった韓国に対する侵略行為の始まりであったとし、正当化しようとしています。
 実は今日の竹島は、1905年(明治38年)に初めて竹島と呼ばれるようになったのであり、それ以前、江戸時代には松島と呼ばれ、19世紀中ごろからはリャンコ島とも呼ばれていました。では、もともと竹島とはどこであったのか。何と韓国の鬱陵島が竹島であったのです。17世紀末、江戸幕府は、竹島(鬱陵島)の帰属をめぐり朝鮮と争います。すなわち、鬱陵島は果たしてどちらのものなのかという争いが本来の竹島問題であったのです。
 米子の大谷、村川両家は、幕府より渡海許可を得、竹島(鬱陵島)でアワビやアシカをとり、商っていました。当時、無人島であった竹島(鬱陵島)を開発したのは紛れもなく日本人であり、大谷甚吉は将軍から「空居の嶋、甚吉相顕し、日本の土地を広めた」として、御紋、御時服、御熨斗目を拝領し、現在もそれらの品は米子市立山陰歴史館に保管されています。
 約80年間、我が国は竹島(鬱陵島)を自国の領土として取り扱ってきたのですが、1692年(元禄5年)、朝鮮の漁民が竹島(鬱陵島)でアワビやワカメをとり始めたことから同島の帰属が問題となりました。かんかんがくがくの議論があったのですが、15世紀の朝鮮の地誌「東国輿地勝覧」の記述から竹島(鬱陵島)は朝鮮領であるとし、1696年(元禄9年)、江戸幕府は竹島(鬱陵島)への渡海禁止を鳥取藩に伝えています。
 しかし、この措置をサツマイモの普及で有名な学者、青木昆陽は、1738年(元文3年)、「草盧雑談」の中で「北史倭搏二、竹斯国、竹島、阿蘇山トアレバ、竹島ハ古ヨリ我国ノ島ニキワマリタリ、シカルニ、憲廟ノ御仁政ニテ与ヘ給トイエドモ、地ハ少ノ所モ惜ムベキコトナレバ、有司ノ過チナランカ」と嘆いています。ちなみに、竹島(鬱陵島)が日本に帰属するとした史書は「北史・倭国伝」のみならず、「隋書・倭国伝」や明後期の「古東夷考略」にも見られ、これには地図さえ記載されています。昆陽の嘆きもむべなるかなであります。突然やってきた朝鮮の漁民に漁場を奪われることになった人たちはもちろん、有識者の間に釈然としないものを抱えたまま、幕府は竹島問題を決着させたのですが、朝野に不満はくすぶっていたのでした。
 その後、明治政府は、松島、別名リャンコ島──この呼び名はフランスの捕鯨船、リアンクール号にちなんだものと言われていますが──を島根県へ編入するに当たり竹島と改名してしまいます。あるいは、江戸時代に竹島(鬱陵島)を朝鮮に譲ってしまった弱腰外交の苦い記憶を、近代国家としての大日本帝国は払拭したかったのかもしれません。何しろ切った張ったの帝国主義の時代、明治政府の気負い、推して知るべしであります。これが竹島問題をわかりにくくしてしまうことになりました。
 この編入自体には侵略的意味は全くなく、松島の帰属を確定づける近代的手続を、それがちょっと大きい岩礁と言えなくもないことから、ケアレスミス的に怠っていたことに気づいた明治政府が慌てて国際的な体裁を整えたものであります。明治政府に帝国主義的な野心があるならば、過去の経緯からいって、もとの竹島、すなわち鬱陵島を島根県に編入していたに違いないからです。松島の島根県への編入が日本の朝鮮侵略の始まりとは言いがかりもいいところなのです。
 一応、韓国が今日の竹島(松島)を韓国領だとする根拠は、鬱陵島を韓国領とする根拠となった「東国輿地勝覧」等に于山島なる島が出てくるのですが、この于山島が今日の竹島(松島)であるとするものです。しかし、当の記述には「峯頭の樹木と山根の沙渚の歴々見える」とあり、今日の竹島(松島)は岩礁であり、砂浜や樹木はもちろんなく、于山島が今日の竹島を指しているとはとても言えません。また、「于山と鬱陵は本一島」との記述もあり、鬱陵島とは90キロも離れた今日の竹島を于山島とするには、やはり無理があります。韓国が今日の竹島の別名だと主張する于山島は、鬱陵島に隣接した竹嶼なる島であると考えるのが妥当でありましょう。
 最近、ジャーナリストの水間政憲氏が雑誌「SAPIO」で決定的な指摘をしています。今日の竹島の島根県への編入前である1840年に、韓国の歴史家・玄采が監修した地理書「大韓地誌」がつくられました。これは、当時、学校教育でも使われていた準公文書とでもいうべきものですが、国会図書館関西館に所蔵されています。これには、「我が大韓民国の位置はアジアの東部にあり、支那の東北部から日本海と黄海を臨み、東南は一海峡を隔てて日本の対馬と相対し」と記載されています。今日の竹島の位置は東経131度52分であり、「我が大韓民国」には含まれておりません。
 対馬は韓国領であるとか、日本海は東海とせよだとか、想像を絶する主張をする彼らには唖然とするばかりですが、自分たちの地誌に日本海とか日本の対馬と書きながら、これを平然と無視して何ら痛痒を感じない彼らにとって、しょせん歴史は政治に奉仕すべきものであり、目的に合わせてつくり変えることができるものなのです。いわゆる従軍慰安婦も強制連行も同じ構図であります。さらに1947年、日本の敗戦後、李承晩ラインの引かれるわずか5年前に発行された崔南善著「朝鮮常識問答」でも、今日の竹島を韓国領としてはいません。
 今回の質問で大いに参考にさせてもらいました「竹島は日韓どちらのものか」の著者である下條正男氏の同著におさめられているエピソードを御紹介しましょう。
 氏は、2000年、独島博物館を見学するために鬱陵島に渡られました。そこで氏は、例の「東国輿地勝覧」に載っている八道総図の壁画パネルを見ます。八道総図は朝鮮全体を描いた古地図で、鬱陵島と于山島も記されています。独島博物館では八道総図をパンフレットに印刷して入館者に配っているのですが、オリジナルを印刷したパンフレットと壁画パネルを見比べた下條氏は愕然とします。何と壁面パネルの于山島の位置は、オリジナルなものを180度回転させ、今日の竹島の位置になってしまっているのです。つまり、壁面パネルとパンフレットでは、于山島の位置が全く正反対なのです。驚くべきことに、彼らはそれを指摘しても平然としており、全く動じる様子はありません。さらに氏は、まげを結った武士を──武士が竹島で漁をするわけがないのですが──朝鮮人の漁民が独島から追い払っている展示を見るに至り、博物館という公的機関が平然と地図をつくり変え、虚偽の歴史を伝えているということから、竹島問題が解決しない理由をかいま見たと述べています。
 いわゆる近隣諸国の人々は、歴史は政治に従属するものであるとの前近代的発想から一歩も抜け出ていないのであり、史実は彼らにさほど重要ではないのです。全くうんざりさせられますが、事は領土に関することであり、安全保障上もおざなりにするわけにはいきません。荒唐無稽な南京大虐殺記念館のようなものをつくっている中国も、また竹島問題の成り行きを見守り、すきあらば尖閣諸島を我が物にしようとするでありましょう。
 繰り返しますが、かの国では歴史というもののとらえ方が我が国とは決定的に異なっていることを常に念頭に置いておかなければなりません。共通の歴史認識など持てるはずがないのです。彼らとは戦略的に対立することこそ必要であり、従属を意味する彼らの友好にはゆめつき合ってはならないのです。
 さて、先ほど少し触れましたが、詳しい帰朝報告はあすの前芝議員に譲るとして、私からは、今回の視察で調査したトルコの教育事情について御報告したいと思います。
 現在のトルコの教育制度は、初等教育が8年であり、これが義務教育となっています。その後、中等教育、日本で言う高等教育が3年あり、ここへの進学率は全国平均で58.56%であり、高等教育、日本で言う大学、大学院への進学率は24.3%とのことです。特徴的なのは、中等教育に進学しない学生は非公式教育として徒弟教育と呼ばれる職人養成教育を受けることができるということで、2004年の統計では、1956の非公式教育機関において約160万人が受講したそうです。
 教科書については、2年前に全国すべての学校が同じ教科書を使用するシステムに変更したのですが、それ以前は日本と同じで、民間の出版社が作成した複数の教科書を国家教育省が検定し、合格した教科書の中から、それぞれの学校が適切と思われる教科書を採択し、採用されていました。初等教育における教科書は無償配付されますが、私立学校の場合は自己負担となっています。
 日本では、近年、テレビ番組で取り上げられたこともあり、学校で教えられているのでトルコの人々はエルトゥールル号の遭難をよく知っていると思われているようですが、実際にトルコでエルトゥールル号の遭難について尋ねると、ある程度の年配の人は知っているが、若い人はほとんど知らないようでした。以前は、トルコでも複数の教科書が存在していたのであり、もしかすれば教科書によってはエルトゥールル号の遭難が掲載されていなかったのかもしれませんが、今回の調査では、残念ながら検定制度があったころの教科書を入手することはかないませんでした。
 関係者のお話によると、ある時期、トルコではエルトゥールル号の遭難は学校で教えられなくなっていたようで、それを憂慮した我が国の恐らくは外務省の方が、トルコ政府にロビーをかけ、復活させたようです。現在は、エルトゥールル号の遭難は初等教育5年生の教科書に記載されており、トルコ全土の5年生が学習してくれています。この教科書については入手することができました。この機会に教育委員会に差し上げたいと思います。(資料を手渡す)
 せっかくですので、エルトゥールル号の遭難に触れた箇所を御紹介しましょう。「1890年に1隻の船がイスタンブールから日本に出港した。その船の名はエルトゥールル号。出港して11カ月後に日本の横浜に入港した。3カ月の滞在の後、横浜から出港したエルトゥールル号は、串本沖にて台風に遭い、580名のトルコ人船員が命を落とす。串本町民は、救出された64~65名の船員を手厚く看護し、殉職された人々のためにも支援活動を行った。集められた支援金は時の統治者にも渡された。串本の人々は、この事故で殉職した人々のために慰霊碑を建立しており、現在はトルコ博物館も存在する。日本はトルコから飛行機で11時間(イスタンブール─東京)離れた国である。日本との過去の歴史に基づく友好関係は、今日、文化的・経済的交流をも活性化させている。このため、2国間の距離は遠く離れているものの、トルコ航空の飛行機や国内外の海運会社の船が行き来している」。
 今回の調査では、この教科書の翻訳を含め、イスタンブールの日本領事館の皆様には本当にお世話になりました。この場をおかりして厚く御礼を申し上げます。また、風化しつつあったエルトゥールル号遭難の学習機会復活のため御尽力された関係者に、心から敬意を表します。真の外交とは、このような地味な努力の積み重ねなのでありましょう。トルコは、紛れもなく世界で最も親日的な国の1つであります。トルコの置かれた地政学的な位置やエルトゥールル号の一件があってのことかもしれませんが、この親日が何の努力もなしに永遠に続くはずもありません。トルコの親愛の情に甘えるばかりであってもいけないのです。
 さかのぼれば、日露戦争での皇国の興廃がかかった日本海海戦の大一番、我が連合艦隊は秋山参謀の神がかり的な判断で、対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を待ち受けます。乃木大将らの活躍で203高地を確保し、砲撃によりロシア旅順艦隊はせん滅したものの、黒海には老朽とはいえロシア黒海艦隊がうごめいていました。もし黒海艦隊がバルチック艦隊と合流してしまえば、日本海海戦の帰趨はまた違っていたかもしれません。あるいは、ロシアが合流して大きくなった艦隊を対馬と津軽に振り分けてしまえば、我が連合艦隊は兵力の分散を余儀なくされ、果たしてあのような奇跡的なパーフェクトゲームができたかどうか。ボスポラス海峡を封鎖し、ロシア黒海艦隊を黒海へ封じ込めたのがトルコであるということは、もっと知られてしかるべきであります。
 また、第二次世界大戦の末期には、世界じゅうのほとんどの国が我が国に宣戦布告をしました。イタリアなどは同盟国であったにもかかわらず、負けたら我が国に宣戦布告をする始末です。そんな中、最後まで中立を保ってくれたのもトルコでした。
 近年では、友情の翼として知られる事件が有名です。イランへ侵攻したイラクのフセイン大統領は、昭和60年3月17日、イランのテヘラン空港の爆撃を宣言。48時間後にはイラン上空を飛ぶ航空機は、軍用機、民間機を問わず、いかなる国籍のものでもこれを撃墜すると表明しました。各国は自国民を救出すべくテヘラン空港に航空機を差し向け、各国民はイランから脱出していきました。しかし、我が国は救援機を派遣せず、200人以上の日本人がテヘラン空港に取り残されることになりました。絶望のふちに立たされた我が同胞の前に飛来したのは、トルコの航空機でありました。実にタイムリミットの80分前、日本人全員を乗せるとテヘラン空港を飛び立ちました。撃墜の恐怖に機内で身をすくめる日本人に、やがて機内放送が流れます。「日本の皆様、ようこそトルコへ。ただいま当機はイラン国境を無事通過しました」。
 トルコの誠意は本当にありがたい。しかし、自国民すら救出することをためらうとは何たるふがいなさ。救援機の安全が確保できなければなどと不毛な議論がなされたと聞き及んでいます。もちろん、救いを待つ命も救いに向かう命も、どちらもとうとい命。それでも命には個性があり、みずからを燃やして他を照らし、とわに輝かんとする命もある。最高の礼でその命を送り出す責任を引き受け、万一のときには最高の栄誉をもってたたえる指導者のいない国が、果たしてこれからも存続することができるのか。戦後、民主主義なるものの底の浅さが露呈した事件でありました。
 昭和14年8月4日、ノモンハンの戦いで、陸軍航空隊第24戦隊を率いる松村黄次郎中佐はホシウ廟基地から出撃しましたが、イ─16の攻撃により被弾。ハルハ河付近に不時着しました。救出に向かった西原五郎曹長は敵陣近くに強行着陸を敢行。接近してくる戦車に砲撃を受けつつも、横転し出火した機体の下敷きになっていた松村中佐を引きずり出し、単座式のため物置に押し込めると、ぼろぼろになった97戦で舞い上がり、ホシウ廟基地に帰還したのでした。先ごろでもタイで、スワンナプーム国際空港がデモ隊に占拠されました。幸い軍事的な衝突はありませんでしたが、もし外国で邦人が動乱等に巻き込まれたら一体だれの助けを待てばよいのでしょうか。
 憲法の前文にあるように、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、他国の助けが来るのをひたすら祈るべきなのか。日の丸が雲の切れ間から鮮やかに翻ることを願ってはいけないというのか。いや、敢然と危険を顧みず同胞を助けに向かう立派な日本人は他国にあだをなすとでも言いたいのでしょうか。
 たった数十年前、私たちの父母、祖父母は世界で最も勇敢な国民でありました。蛮勇を振るうことはいけませんが、勇敢であることは我が国や欧米諸国に共通の徳目でありました。「VIRTUE」は英和辞典によりますと美徳、徳、善とありますが、もともとはラテン語で勇気、男らしさ、力をあらわす言葉でありました。したがって、戦前の日本は当時の世界基準からすれば世界で最も道徳的であったとも言えるでしょう。実際、我が軍の軍規の厳正なることは広く世界に知られていましたし、当時にあっては全く自然なことであった人種差別の撤廃を国際連盟に訴えたのも我が国でありました。
 阪神・淡路大震災では未曾有の事態に慌てふためき、当事者能力を失った最高司令官のために多くの人命が失われました。一刻でも早く被災地に飛んでいきたかった自衛官は切歯扼腕したと聞きます。ために、この震災は人災であったとまで言われたのです。この無責任で無能な人物が、日本は侵略国であったなどという談話を自分はさも立派であるかのように発表し、いまだにそれが金科玉条とされているとは全く気がめいるばかりであります。中韓が我が国を侵略国と非難するのはまだしも、中曽根元総理の言葉をかりるならば、みずからが歴史法廷の被告席に着かねばならない政治家が裁判官然として自国の歴史を裁くとは、傲慢にもほどがあります。
 航空自衛隊の幕僚長の論文が物議を醸しております。この談話と異なることを書いているのはけしからんということらしい。私は浅学非才ゆえ、談話なるものの位置づけがよくわかりません。談話は、「広辞苑」によりますと「ある事柄についての見解などを述べた話」とあります。
 かつて鈴木善幸という総理大臣が、日米安保条約は軍事同盟ではないなどととんでもないことを述べたことがありましたが、あれは談話とは言わないのでしょうか。赤ちょうちんでではなく、レーガン大統領との会談の後の記者会見の席でそう話したのですから、これは日米安保条約についての鈴木総理の見解、まさに鈴木談話。宮沢談話、河野談話、どちらもとんでもないものですが、しょせん彼らは官房長官、鈴木は曲がりなりにも総理大臣。鈴木総理はこの発言の責任をとって辞任をしたわけでもなく、抗議の辞任をしたのは時の外務大臣であることを見れば、本人からすれば失言でもなかったのでしょう。まさに総理の談話。しからば鈴木談話は生きているのか。歴代首相は鈴木談話を継承しているのか。鈴木総理の後は中曽根総理なのですから、日米安保条約が軍事同盟ではないなどとはゆめ思うわけもなく、中曽根総理は鈴木談話を破棄したと言えるでしょうが、単に鈴木総理が無知であっただけというのが実態でありましょう。
 航空自衛隊の幕僚長の歴史観が村山談話と異なっていたからといって何ほどのことがある。単に村山総理が無知であっただけのことでしょう。空幕長はクーデターの企画書や檄文を書いていたわけではないのです。鈴木善幸の談話など、憲法第98条の2、条約の誠実な遵守義務に抵触し、憲法違反であったとも言えるのに、大して騒がれもしなかったではないですか。反米なら憲法違反も許し、中国の機嫌を損ねそうだと空幕長の論文ぐらいで大騒ぎするとは、物事の軽重を全くわきまえていないと言わざるを得ません。
 村山談話は閣議決定がどうとかいっても、閣議決定されたものがころころと変わるのはよくあることですし、閣議決定などまともにやっているわけではないことを、厚生大臣を務められ、「大臣」という著書のある管直人氏が暴露しています。そもそも歴史観のようなものを閣議決定することそのものがうさん臭いではないですか。
 空幕長の論文の中身にまで今回言及する時間はありませんが、彼は一旦緩急あれば命を惜しんでは務まらない職にある武官なのです。比喩ではなく文字どおり国に命をかけるには、日本という国に至上の価値を見ずしてできるものではありません。彼は飛んでくる、命令が下れば日本国民を救うため、彼なら飛んできてくれるでしょう。また、彼なら日本の空をそれこそ死守してくれるでありましょう。防衛力は装備だけではかれるものではありません。旺盛な士気と厳しい訓練に裏打ちされた卓越した技量がなければ国防の大任を果たすことはできないのです。彼の歴史観はこれらを醸成するためのいわば職業上の必然であるのです。
 とにかく、近年の我が国では、軍事を語ることがはばかられるような空気が充満していますが、鎌倉幕府以来、国の統治を武士が担ってきた我が国には尚武の伝統があり、武はあらゆる日本的価値の中核をなしてきました。今日、日本の美風が失われつつあると言われていますが、尚武の気風の衰退こそその最も大きな要因であると考えられることから、今回、新学習指導要領で武道が必修とされたことは実に喜ばしいことであります。
 従来のダンス、武道いずれかの選択から、いずれもが必修になったということは、武道にはダンスにはない教育効果があると認識されたからにほかなりません。単に体育の1種目として武道をとらえるのであれば、これを必修とする根拠に欠けます。
 言うまでもなく、武道は武術を母体として生まれたものであり、その本質は格闘技であります。闘争は人間の本能に深く根差したもので、青少年の根源的な生きる力を養成します。かつて相撲をとって遊ぶことで鍛えられていたであろうものは、とても大切なものであったと思うのです。必要以上に戦うということを忌避する今日の風潮に武道の必修化が待ったをかけてくれるのではと大いに期待をしています。
 逆説的ではありますが、身体的な危機を体験することにより命の根は深くなる、武道は闘争を通じ心身を錬磨するものでありますが、しかし、その闘争は独特の様式化で決定的なダメージを相手に与えることがないよう工夫され、また形等を通じて合理的で美しい身体操作が学べるようになっています。武道には、教育的見地から長年にわたってその体系が編まれてきた経緯があり、いわゆる町道場や学校の体育館等で民間の方々が青少年を鍛えてきたという実績があります。青少年にとって、決してむやみに危険なものではありません。武道の必修化が我が国に尚武の気風をよみがえらせることにつながってくれればと願ってやみません。
 そこで、教育長にお尋ねをいたします。
 第1点、新学習指導要領の解説書の記述に韓国が干渉したことをどのように考えるか。
 第2点、竹島問題を学習することの意義をどのようにとらえているか。
 第3点、外務省の「竹島問題を理解するための10のポイント」を活用する考えはないか。
 第4点、本県ではエルトゥールル号の遭難を記載した教科書を採択していない地域もあるが、授業ではどのように教えられているのか。
 第5点、トルコの教科書を進呈するので、活用方法を考えてみてはどうか。
 第6点、武道を必修化することの意義をどのように考えるか。
 第7点、武道の授業においては、積極的に当該武道の専門家の助けをかりることを考えてみてはどうか。
 以上、お尋ねして質問といたします。(拍手)
○副議長(山田正彦君) ただいまの尾崎太郎君の質問に対する答弁を求めます。
 教育長山口裕市君。
  〔山口裕市君、登壇〕
○教育長(山口裕市君) まず、竹島問題について一括してお答えいたします。
 人格の形成と国家・社会の形成者の育成を目的とする教育にありましては、国際協調の精神を大切にしながらも、主権国家としての責任と主体性のもとに行うことが重要であると考えております。
 議員御指摘のとおり、このたびの学習指導要領の改訂によりまして、中学校の社会科解説書に、「我が国と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違があることなどにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である」と記載されております。竹島などを含む領土問題の取り扱いに関しましては、生徒に社会的事象を多面的、多角的に考察させるため、相手国に異なる主張があることも認識した上で、我が国の見解、主張を理解させていく必要があると考えております。
 なお、これらの学習を進める上では、外務省が作成した資料の利用を促すとともに、各学校におきまして、生徒の発達段階や実態等に即した教材研究が進められるよう指導してまいります。
 次に、トルコの教科書の有効な活用について一括してお答えいたします。
 このエルトゥールル号に関する学習は、児童生徒に国際理解や国際協力に対して積極的に取り組む意欲を高めさせるとともに、我が国とトルコの友好をさらに深めていくものとして意義あることと考えてございます。
 県内では、3地方36校の中学校でこの内容を掲載した社会科教科書を使用しているほか、総合的な学習の時間等においても取り組まれております。また、和歌山県が作成したふるさと教育副読本「わかやまDE発見!」にも掲載をしており、現在行われている改訂作業におきまして内容の充実を図り、教材としての活用を進めていくこととしてございます。
 議員から御紹介があり、また、ただいまちょうだいいたしましたトルコの教科書につきましては、今後有効に活用していけるよう研究してまいります。
 次に、武道を学ぶことの意義についてでございます。
 今回の学習指導要領の改訂によりまして武道が必修となった意義につきましては、まず、武道の学習を通じて、生きる力につながる精神性や作法など、行動の仕方を含めた我が国固有の伝統と文化を学ぶことができるところにあると考えます。また、闘志を内に秘めつつ相手と正対して行う武道は、自立の精神の涵養に役立つほか、痛みを感じることにより自分を抑え、相手の立場を尊重する態度を養う上でも効果的であると考えます。
 教育委員会では、平成24年度からの完全実施に向けまして、教育課程の説明会や体育主任会議等で啓発を図ってございます。さらに、指導者の育成を目的として武道指導者養成講習会等を開催し、保健・体育教員の指導技術の向上に努めているところです。
 武道専門家の活用につきましては、地域の指導者の方を講師等に招いて授業を計画することも大いに有効な手段であると考えており、より円滑かつ継続的に導入できますよう、各武道関係団体の協力も得ながら、その方途を検討してまいりたいと考えます。
 以上でございます。
○副議長(山田正彦君) 答弁漏れはありませんか。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(山田正彦君) 再質問を許します。
 18番尾崎太郎君。
○尾崎太郎君 この武道の必修化というものは、私、非常に期待してるんですが、私も空手をずっとやっておりまして、宇治田先生にも大分習ったことがあります。少なからずこの私の戦闘的といいますか闘争心は、宇治田先生によって養われたものではないかと。時にちょっと行き過ぎることもあるんですが、後ろからやっぱり御指導をいただいておるんで、武道家としての、先ほど教育長がおっしゃった相手を尊重しということもこれから学んでいかなきゃならないんですが、しかし、何よりもまず日本に必要なのは、戦うということを忌避しないという姿勢だと私は思っております。ぜひこの武道の必修化が大きな教育効果を上げることを願っております。
 そのため、今、教育長がいろんな体育の先生を、今、武道の養成をしておるということでしょうけども、この武道というのも極めて専門的な──教育長も聞くところによると柔道をなさってたらしいですが、ある意味種目でありますので、そんなつけ焼き刃で、ちょっと習ったぐらいで武道ができるようになるわけではないわけであります。ですから、我が国には、剣道もそうですし、柔道もそうですし、あるいは合気道、それぞれに地域でもう長年、民間の方が子供たちを武道を通じて育成してきたという伝統があるわけでありますから、こういった方々を教育の場に、お力をおかりしていくという方策をぜひ検討していただきたいと思います。要望として終わります。
○副議長(山田正彦君) ただいまの発言は要望でありますので、以上で尾崎太郎君の質が終了いたしました。
 これで、本日の質疑及び一般質問を終わります。
 明日も定刻より会議を開き、質疑及び一般質問を続行いたします。
 本日は、これをもって散会いたします。
  午後2時39分散会

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