平成19年6月 和歌山県議会定例会会議録 第3号(尾崎太郎議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

  午後1時3分再開
○副議長(新島 雄君) 休憩前に引き続き、会議を開きます。
 質疑及び一般質問を続行いたします。
 19番尾崎太郎君。
  〔尾崎太郎君、登壇〕(拍手)
○尾崎太郎君 議長の許可を得たので一般質問をいたします。
 県民の審判を仰ぐ統一地方選挙がございました。選挙が近づいてまいりますと、この議場に戻れるか心配でなかなか本を読む気にもなれませんでしたが、選挙が終わったら読もうと決めていた本がありました。1冊は、持ってはいたのですが通読はしたことがなかった中村粲著の「大東亜戦争への道」であり、もう1冊は「リットン報告書」です。
 「リットン報告書」は、名前だけは知らない人は恐らくいないでしょう。日本の満州での行動は侵略であったと当時の国際社会も認識していたということの証左として持ち出されます。これに納得しなかった日本は反発。昭和8年(1933年)の国際連盟総会で、松岡洋右ら日本代表団は議場から退場し、国際連盟を脱退。孤立化した日本はやがて大戦争へと突入していく。大方の日本人は中学生のときにこんな授業を受けたでしょうし、私もリットン報告書の中身については特に興味を持っていませんでした。しかし、詳しくは覚えていないのですが、しばらく前に櫻井よしこさんの、実はリットン報告書はかなりの程度日本の立場を理解していたとする評論を読んで、いつかは「リットン報告書」を読まなければと思っていたのです。
 戦後、我々には幾つかの刷り込みがなされています。例えば、日本は無条件降伏をしたというのも刷り込みの1つであります。大体、ポツダム宣言は、その本文で、我らの条件は次のようなものであると書いています。有条件なのです。
 少し前にクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」や「父親たちの星条旗」等が公開され、書店の店頭にも小笠原方面総司令官であった栗林忠道中将関連の著作が所狭しと並んでいました。ちょっとした栗林ブームのようでしたが、実は、この硫黄島での戦闘があったればこそ、ルーズベルトやチャーチルが日本の無条件降伏を企図していたにもかかわらず、我が国は無条件に降伏しなくて済んだのでした。
 硫黄島での戦闘は苛烈をきわめました。3日間、それこそ島の形が変わってしまうのではないかと思えるほどの艦砲射撃を加えた後、圧倒的な兵力をもって上陸したにもかかわらず、米軍の死傷者は、戦闘開始わずか3日間でノルマンディー上陸作戦での死傷者を上回ることになります。
 占領まで5日もあれば十分と考えていた米軍の顔色は変わりました。栗林中将以下守備隊2万人の鬼神もかくやと思わるる働きは、米軍最強の海兵隊が我がほうの3倍の兵力と圧倒的な火器をもってしても、わずか約22平方キロの小さな島を占領するのに36日という日数と我がほうの戦死傷者を上回る、実に戦死傷者約3万人という余りにも甚大な損害を米国に強いたのでした。その結果、米国は日本の無条件降伏をあきらめ、有条件のポツダム宣言を出すに至ったのです。
 ちなみに、無条件とは、各地の日本軍は無条件で降伏せよ、停戦交渉等には応じないというほどの意味でした。
 戦後のアメリカの巧みなプロパガンダと、負けたものはしようがないといった日本人特有のある種の諦観、潔さが相まって、今日、日本は無条件降伏をしたということを疑う人はほとんどいない状況であります。
 日本は、極東軍事裁判いわゆる東京裁判を受諾して、サンフランシスコ講和条約で国際社会へ復帰したというのも刷り込みの1つでありましょう。以前にも論じましたが、受諾したのはあくまで言い渡された判決であり、裁判そのものではありません。
 そして、最近は、危うく、いわゆる従軍慰安婦の強制連行が刷り込まれそうになっていました。慰安所があったことは事実ですが、それを軍が管理したことも、いわんやそのために女性を強制連行したというような事実はありません。そのようなことを立案、実行したのであれば、近代国家における軍は役所の1つですから、必ず文書が残っているはずです。ところが、どこを探してもそのような文書は出てこなかったのです。平成9年3月12日の衆議院予算委員会で平林内閣外政審議室長は、「政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」と答弁しています。
 関係者の御努力で、ようやくいわゆる従軍慰安婦の記述が中学校の歴史教科書から姿を消しつつあるのに、今ごろになって米国下院でいわゆる従軍慰安婦をめぐる対日非難決議が提案されました。驚くべき内容ですが、御紹介いたします。
 第110回議会第1会期下院第121決議案。「下院は次のような見解を表明する。すなわち、日本政府は、1930年代から第2次世界大戦の全期間にわたり、アジアの植民地支配と太平洋諸島を占領していた戦時に、日本の軍隊が強制力を行使し若い女性を性奴隷にしたことを──その性奴隷とは、現在では「従軍慰安婦」としてすっかり知れ渡っているのだが──公式かつ平明なやり方で認め謝罪すべきであり、また、そのような事実に対する歴史的な責任も同様に平明で明瞭な形式を通じて受け入れるべきである」と。
 アメリカの傲慢さにはあいた口がふさがりませんし、このような決議案が出された背景には、あるいは他国のロビー活動があったのかもしれませんが、しかし、やはり何より河野談話が大きい。たとえ法的な拘束力はなくとも、世界で最も影響力のある超大国の下院でこのような決議が採択されるようなことになれば、それこそ世界じゅうの人々の頭の中に、日本軍は性奴隷にするため朝鮮半島の人々を強制連行したと刷り込まれてしまいかねません。また、それをもくろんでいるような勢力もあるでしょう。そんなことになれば、どれほど我が国の名誉と国益が損なわれることになるかと思うと、暗たんたる気持ちになります。一刻も早く河野談話を否定しなければなりません。
 当時、売春は合法的な産業でありました。無論、後ろめたい日陰の産業ではありましたが、慰安婦となった女性は業者と契約をしていたのです。あるいは、女性の父親が業者と契約をしていた場合もあったでしょう。私はそんな職業にはつきたくなかったという女性はお気の毒でありますが、悲しいことに、当時、日本人も朝鮮人も総じて貧しかったのです。そして、売春は、特に戦地の場合、かなりの高収入を保証するものであり、慰安婦は募集すれば強制連行などする必要もなかったのが実情でありました。
 今月号の「正論」で、茂木弘道氏が2件の米軍公式記録を紹介しています。米陸軍インド・ビルマ戦線所属の戦争情報心理班の報告は「慰安婦とは売春婦にすぎない」、「月平均1500円の総収入を上げ、マスターに750円を返還する」とあり、朝鮮人軍属の証言として、「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は、すべて志願したか両親に売られた者である。もし女性たちが強制動員されれば、すべての朝鮮人は老人も若者も激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう」とあります。ちなみに、日本の軍曹の月給は30円で、慰安婦は実にその25倍を稼いでいたことになります。
 もちろん、慰安婦は日本人も多数いましたし、戦後、焼け野原になった我が国で、米兵相手に春をひさぐ女性がいたことは周知の事実であります。日本人として愉快な話ではないですが、だれかの責任を追及するようなたぐいの話でもないでしょう。
 安倍総理も、狭義の強制だの広義の強制だのとややこしいことを言わず、「国家として性奴隷とするために朝鮮半島その他の地域から女性を強制連行したという事実はない」と毅然と主張すべきでありました。
 本来保守派であるはずの安倍総理の手足を縛ってしまった河野談話ではありますが、ごく一部、真っ当なところがあります。「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」とするくだりであります。まさにそのとおりであります。我々は、教科書問題での宮沢談話、いわゆる従軍慰安婦問題での河野談話等、目先の摩擦を恐れる余り、真実をねじ曲げてまで相手におもねり御機嫌をとることがどれほど国益を損なってきたかを歴史の教訓としなければなりません。
 さて、話を「リットン報告書」に戻します。私は、長い間、リットン報告書は我が国の満州政策を列強各国が自分たちのことは棚に上げて非難したレポートであると思い込んでいました。しかし、この報告書を読めば、私がしばしば主張してきたことを裏づけてくれています。それは、大陸は恒常的に内乱状態にあったということです。
 大陸の内乱といえば、清朝の名君乾隆帝が退位した翌年に発生した白蓮教徒の乱、1851年に始まった太平天国の乱、列強出兵のきっかけとなる義和団の乱等、いわゆる共匪の乱が世界史の授業には出てきます。それぞれ我が国では考えられない大規模なものではありますが、実は大陸では、これらの乱以外にも回教徒の反乱や匪賊組織の跳梁ばっこ、軍閥の対立等があり、まさに内乱、反乱が繰り返されてきたのです。というより、清朝末から大戦後、共産党が国共内戦に勝利して中華人民共和国を樹立するまでの間、日本的感覚からすれば、ずっと内乱状態にあったと言ったほうがよいのかもしれません。大陸は絶えざる混乱の中にあったのです。このことは近代日本の大陸政策を理解する上で決定的に重要であると考えます。
 混乱の中で清朝が倒れ、辛亥革命が成った後も、決して統一された国家が出現したわけではありません。大陸のあちらこちらに政府がつくられ、それらがお互いに相争っていたのです。さながら五代十国時代のようなものであります。
 「リットン報告書」は、「この十数年間、シナは軍閥間の戦争によって荒廃し、いたるところに出没した匪賊は、零落した農夫や飢饉に襲われ絶望した住民、あるいは給料不渡りの兵士を仲間に加え、ますますその数を増し、有力な軍隊を構成することになった」「当時、シナは北京と広東にまったく異なった政府をもち、奥地の交通・通信をしばしば妨害する多くの匪賊のために混乱し、さらにシナ全体を渦中に投じるような内乱の準備もなされていた」「独立を主張する政府はじつに3つもできてしまった。そのうえ実際に自立した省、または省の一部がいくつかあった」と書いています。
 この報告書を読みながら、私はふと「坂の上の雲」を読みながら浮かんだ疑問を思い出しました。歴史的な知識の乏しい中学生だった私は、血沸き肉躍るこの国民的小説を読みながら、何で日本とロシアの戦場は満州なのだろうかと思ったのです。
 義和団の乱で列強とともに出兵したロシアは、これに乗じて満州を実効支配してしまいます。「リットン報告書」には、「1900年にロシアは、義和団の乱がロシア国民に危険を与えるからといって、満州を占領した」とあります。満州を取れば朝鮮半島まであとわずか、そのすぐ先には日本があるんです。当時の日本の指導者は、朝鮮半島が前線基地の役割を果たした元寇を思い浮かべたことでしょう。
 ところが、清朝は全くロシアの勢力を満州から追い出す努力をしようとはしません。既に満州はロシア領となってしまっていたかのようでした。
 日露戦争は、結果として満州からロシアを追い出すことになりました。我が国はポーツマス条約により、ロシアから南満州鉄道の権益と遼東半島の租借権を得ましたが、満州の地は清朝に返ったのでした。
 さて、先ほど述べたとおり大陸は混乱が常であったので、清朝では満州の治安を維持することはとてもかないません。我が国は南満州鉄道の権益を守るため、条約に基づき守備隊を置きました。後の関東軍ですが、そのため、大陸の他の地域に比べ満州の治安は格段によくなり、大陸各地からは大勢の民衆が安定した満州に流入し、経済的にも発展を遂げていきました。当時、満州は大陸で最も暮らしやすい土地であったのです。
 「大東亜戦争への道」には、昭和3年(1928年)秋、満州を視察した米モルガン財団代表ラモントがオールズ国務次官にあてた手紙が紹介されています。「自分の観た所では、今日満州は全支那で殆ど唯一の安定せる地域である。かつ日本人が存在することによつて満州は支那問題に於ける不安定要素であるよりは安定勢力となることが期待される。日本は軍事的意味に於いてのみならず、経済的にも満州を発展せしめつつある。日本がかくするのは、満州に赴く少数の日本人開拓者の利益のためではない。実際の話、満州開発は中国人の利益となつてゐるのだ。不安定な戦争状態が中国の広大な部分に広がってゐるため、今や中国人は、他の何処に於いても受けねばならぬ匪賊行為や略奪から逃れるために、何千人と云ふ単位で南満州へ流れ込みつつある」。侵略とはほど遠いイメージであります。
 しばらくは平和に繁栄するかに見えた満州は、ロシア革命後コミンテルンが結成され、国際共産主義運動が展開されるにつれ、様相が変わってきます。このあたりの事情は「大東亜戦争への道」に詳しいのですが、「リットン報告書」には「ソ連政府および第3インターナショナルは、現行条約を基礎として対支関係を維持しようとする帝国主義諸国に強く反対する政策を採用、シナの主権回復闘争においてシナを援助することもありうるとした」とあります。
 ソ連の世界革命戦略は、大陸において民衆の反日、侮日を扇動したのではなかったか。満州の混乱こそは彼らの望むところではなかったのか。せっかく国防上最大の脅威であった満州のロシアを駆逐したのに、ソ連の共産主義が大陸での革命を目指し、暗躍していったのです。そして、さらには繁栄を遂げる満州を我がものにせんとする軍閥がばっこしていたのでした。
 満州事変とは、リットンに言わせれば、「問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に対して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ」「満州においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ」といった性格を持つものなのです。河野氏の言うように歴史の真実を回避しないとするならば、果たして満州事変は単純に日本の満州侵略であったと言えるものなのでしょうか。
 歴史の真実は、日本人の耳に心地よいものばかりではないでしょう。柳条湖での満鉄の爆破は日本側が引き起こしたものであることを知らぬ者はいません。失敗から反省し、学ぶことは大切です。しかし、いわゆる自虐史観に陥ることは、百害あって一利なしであります。中村先生の言葉をかりるならば、「柳条湖事件とは、無数の原因の累積の上に加えられた最後の小原因」だったのです。大陸や半島の人々の耳に心地よく響かないからといって、歴史の真実を、無数の原因の累積を回避することもまた、してはならないのです。
 さて、2月議会の予算委員会で申し上げましたが、教科書問題とは、つまるところ社会科、特に歴史教科書の問題であります。頭のやわらかい中学生の時代に刷り込まれたものは容易には消えないのですから、中学校の歴史教科書の採択は極めて重要であります。
 「教科書はだれが決めるのですか」との問いに「教育委員会です」と答えるのは正解ではありますが、同じ問いに「教員です」と答えるのも間違いとは言えません。
 2月議会の予算委員会で教科書採択のあり方と建設談合の相同性を論じたところ、小関教育長は憤慨しておられましたが、建設談合では、価格競争によって決められるべき落札者を業界と呼ばれる世界の仕切り役が決めてきたのです。例えば、「この工事の受注者はどのようにして決めるのですか」という県民の問いに、「条件つき競争入札で決めます」と答えるのは間違いではないですが、「大阪の仕切り役が決めます」と言うのもそのとおりであったわけです。要は、形式的な決定権者と実質的な決定権者ということでしょう。これはよくあることであります。
 サラリーマンであったころ私は営業をいたしておりましたが、訪問する会社の真の決裁権者はだれであるのかを常に探っておりました。社長がそうであるとは限らないのです。奥さんのこともあれば、実力専務の場合もあります。はたまた引退した父親であることもあるでしょう。すぐれた営業マンには、それをかぎ分ける嗅覚がなければなりません。ゼネコンの営業担当者は、こぞって仕切り役の覚えをめでたくするよう頑張ったはずです。
 業界は、単に無法者の集団ではありません。独特のルールに支配された、それなりに秩序立った世界であったのです。
 例えば、汗かきルールというものがあるそうです。コンサルタント会社が本来作成すべき図面をゼネコンが手伝うということらしいですが、その際、ゼネコンは図面にある種の細工をするらしい。一般人にはわからないその細工が仕切り役の目にとまるとポイントアップとなるそうです。工事を受注するにはコンサルタント会社に営業すべし、まさに将を射るにはまず馬からであります。
 和歌山の場合にはその奥に知事がいましたので問題はさらに複雑でありますが、それは置くとして、私が教科書出版社の営業担当だとしても、教育委員の方に営業しても仕方がないのです。もしするとしたら、教育委員が相談をする相手、コンサルタント、すなわち調査員にすべきなのです。
 予算委員会で小関教育長は、「調査員はどのような人たちなのか」との問いに、「教科書採択に携わる人の公表というのは、慎重を要する点がございます。かつて、非常に激しい教科書売り込み時には疑獄事件に発展した歴史もある中で、事前に氏名とかどういう役職の人ということを公表することは避けるということで、事後公表というやり方をとっております」と答えておられます。営業のターゲットとされないよう氏名の公表を避けるということですが、これは調査員こそが真の決定権者であることを物語っているのではないでしょうか。何となれば、教育委員はその氏名を公表しているのですから。
 しかし、もし教育委員の方々が主体的に採択にかかわろうとした場合には、かなりのプレッシャーがあるそうです。このプレッシャーは、残念ながら教科書会社の甘いささやきではなく、ある種の団体からのプレッシャーである場合もあるので、そのときにはよほどの覚悟がないと主体性を保てないのが現状でしょう。
 本県の建設談合事件では、コンサルタント会社の選定から官が関与し、選定事務をゆがめていたことが明らかになっています。教科書のコンサルタントと言うべき調査員会の構成メンバーの選定はどのようにして行われているのか、非常に気になるところであります。
 調査員会なるものがなぜ必要かということについて小関教育長は、「教科書というものは非常に種類がたくさんあります。学年もさまざまです。内容も非常に細かい点がある。校長や教頭がすべてに通じているとは言えません。ですから、国語の教科書を選ぶ場合には、国語の専門家をやっぱりそれぞれ委嘱して細かい作業をしないと成り立たないわけです」と答えておられます。しかし、そうであれば、そもそも教科書検定制度というのは一体何であるのか。検定を通ったということはとりあえず一定の水準はクリアしているはずなのですから、教科用図書選定審議会がつくる教科用図書選定資料を参考に教育委員が選べばそれでいいのではないですか。
 教科書は、まず文科省で検定され、教科用図書選定審議会に諮られ、法律に定めのない調査員らに専門的な審議をされ、さらに念のため選定委員会で審議され、そしてやっと教育委員会の出番となって採択されるのです。屋上屋を架すと言いますが、それ以上でありましょう。
 そこで、教育長にお尋ねいたします。
 第1点、県立中学校の教科書採択において、選定委員会の委員はどのようにして選定されているのか。選定委員は何人か。また、どのようにして選定委員会は教育委員会に報告をしているのか。
 第2点、同じく調査員はどのようにして選定されるのか。調査員は1種目何人か。また、どのようにして調査員は選定委員会に報告をしているのか。
 第3点、市町村立中学校の教科書採択において、無料措置法第13条4項で、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科書を採択しなければならないとなっているが、法律はこの協議のための機関については特に定めていない。文科省は2002年に、採択協議会の決定手続をあらかじめ定めておくこととの通知を出しているが、現状はどうなっているのか。
 第4点、教科用図書の展示会場の増設についてはどのようになっているのか。
 第5点、教科用図書に関するアンケートの様式はどのように改善されているのか。
 第6点、教科用図書の見本本の有効利用はどのようにして図っているのか。
 さて、去る6月16日、海南市総合体育館で北朝鮮による拉致被害者救出のための国民大集会が、有本さん御夫妻、中山恭子補佐官らをお迎えし、開催をされました。我々自由民主党県議団が中心となって結成いたしております和歌山県拉致議連も共催をいたしましたが、大勢の県民の方々に御参加をいただき、まことにありがとうございました。また、お手伝いをいただきました県庁職員の皆さん、ボランティアの方々、関係各位に心から感謝申し上げます。
 日本国憲法は13条で、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しています。憲法とは本質的に国家に対する命令であるのですから、国は日本国民の生命、自由が脅かされるようなことがあれば、どんなことをしてでもこれを守らなければなりません。しかるに国は、北朝鮮に拉致された国民を救出すべく最大限の努力を傾注してきたと言えるでしょうか。確かに、小泉、安倍と続いてきた政権は、これまでとは違います。しかし、何十年の間、拉致被害者の方々やその御家族の苦しみを思うとき、国家とは何ぞやと改めて問わざるを得ないのです。
 アフガン攻撃の際、米軍がアルカイダのメンバーらしき者たちを拘束したときのことです。このメンバーたちはキューバの米軍基地に送られました。アルカイダは正規の軍ではないので、その構成員は正規の戦闘員の扱いを受ける権利はありません。ゲリラは捕虜になることができないのです。したがって、極論すれば、米軍にはアルカイダのメンバーを裁判にかけることなしに射殺することすら許されるのです。
 御承知のとおり、イギリスはアメリカのアフガン攻撃を支持しました。小泉首相と並んでブレア首相はブッシュ大統領に大声援を送っていましたが、このメンバーの中に英国籍の人物がいることがわかるや否や態度を豹変、キューバに拘束されているメンバーに人道的対応をするようアメリカに求めたのです。自国民であれば、ゲリラですらかくのごとし。もしも英国や米国の市民を拉致したら、しかも子供を拉致したらどうなるのか。北朝鮮はよく知っていることでありましょう。
 現在、政府が認定しています拉致被害者は10件15人でありますが、それ以外に、特定失踪問題調査会によれば、北朝鮮による拉致の疑いが極めて濃厚であるとリストアップしている失踪者は、平成16年末の時点で33人。代表の荒木和博氏によれば、調査会にも警察にも届け出ていないケースや身寄りのない場合もあるので、拉致被害者はどう見ても100人を下ることはないとのことであります。まさに北朝鮮による拉致は組織的な軍事行動であると言え、そもそも個別の犯罪として警察が捜査をするというだけでは無理があります。
 我が国にはいわゆるスパイ防止法のような法律はなく、北朝鮮の工作員を工作員であるという理由で逮捕できるわけではありません。北朝鮮による拉致は軍事マターなのですから、政治家が国防上の観点から必要な立法措置をとり、軍事行動まで視野に入れた安全保障の機関を創設し、対処すべきでありました。
 それにしても、これほどの規模で組織的に行われてきた拉致を本当に歴代政府首脳は知らなかったと言うのでありましょうか。薄々は気づきつつも、問題の余りの深刻さに有効な手だてを講じるのをちゅうちょしてきたのではなかったか。それは、軍事をも語らねばならない事態の重圧から逃れたかったからではないのか。余りにも深刻な問題に対するこの恐るべき無責任の構造は我が国の宿痾であり、拉致問題に対する不作為は、確固たる戦略も持たず、なし崩し的に大戦争というそれこそきわめつけの深刻な事態へ踏み出していった戦前をほうふつさせるものです。ここにも反省すべき歴史があると言えましょう。
 社会保険庁のていたらくには目に余るものがあり、歴代厚相の責任を問う声まで上がっていますが、国民には塗炭の苦しみを味わわせ、自分はぜいたく三昧の将軍様が支配する独裁国家へさらにそのぜいたくを続けさせることになるにもかかわらず、人道支援などとへ理屈をつけて米を送っていたのですから、拉致被害者の御家族の御無念は察するに余りあります。
 米を送ることを決めた外務大臣は、いわゆる従軍慰安婦の強制連行を認める談話を出した、かつての官房長官でありました。彼の人道支援などというへ理屈の裏にあるのは、戦前、我が国は朝鮮半島で残虐なことをしたとする自虐史観ではなかったのか。北朝鮮は我が国首脳の自虐性を見透かし、高笑いしたことでありましょう。ゆめ奇妙なおあいこ論につき合ってはなりません。
 極めて深刻な問題、とりわけ軍事に対する責任を政治家がきちんと担うこと、そのためのシステムを整備すること、そして自虐史観から脱却することが我が国の国防上必要不可欠であります。いずれ機会があれば、朝鮮半島における我が国の戦前の政策がそれほど侵略性を帯びたものではなかったということも論じてみたいと思います。
 それにしても、家族とは何とすばらしいものでありましょうか。子供や兄弟を拉致されるということはこの上もない悲劇であります。しかも、その苦悩は数十年にも及んでいるのです。それでも御家族らは決してくじけることなく、日々運動を展開なさっておられます。
 我々は彼らと接するとき、改めて家族のとうとさ、ありがたさ、それが人をどれだけ強く、優しくすることができるのかということを学ぶのです。国の基である家族の解体を推し進めるような夫婦別姓などの制度は、断じて取り入れるべきではありません。個人の自由とは、安定した社会があって初めて実現できるものだからです。
 横田早紀江さんはおっしゃいました。「私はめぐみを取り返すことによって日本という国の誇りを取り返したいのです」と。何を食べてもおいしいと感じることのない日々を過ごしながら、筆舌にしがたい苦しみを国を憂える気持ちにまで昇華なさった御家族の方々には、ただただ頭が下がる思いであります。しかし、何分、今回和歌山にお越しいただきました有本さん御夫妻を初め家族会の皆さんは御高齢であります。有本恵子さんが拉致されてから25年にもなるのです。もう余り時間は残されていません。
 今回の大集会には1500人を超える県民の方々に御参加をいただきました。安倍総理はビデオメッセージで「拉致問題の解決は自分の内閣の最優先課題だ」とおっしゃっていましたが、我が国は民主国家でありますから、国民1人1人の拉致被害者を何としてでも取り戻すというかたい決意こそが北朝鮮への最大のプレッシャーになるはずです。その意味で大変意義のある大会でありました。
 さらに、今回の大会の特徴は、主催者の1人に和歌山県がなったことであります。この種の大会を地方自治体が主催するのは全国で初めてだそうであり、画期的なことでありました。
 そこで、質問をいたします。
 第1点、いかなる考えのもとに本大会を和歌山県が主催することになったのか。
 第2点、本大会に参加して、どのような感想を持ったのか。
 以上を知事にお尋ねして質問といたします。(拍手)
○副議長(新島 雄君) ただいまの尾崎太郎君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事仁坂吉伸君。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) 先ほどの尾崎議員の御発言について、例えば自虐史観、歴史のタブー、日本人の中にある言霊信仰、あるいはリアリストを嫌う風潮というようなものについて深く考えさせられるものがありました。しかしながら、御質問ではございませんので、御質問に限ってお答えさしていただきます。
 昨年6月に制定された拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律では、拉致問題について、国と連携を図りつつ国民世論の啓発を図るよう努めることが地方公共団体の責務として定められております。
 和歌山県といたしましても、広く県民の皆様方に拉致問題について理解をしていただき、その解決に向けた機運を盛り上げることが極めて重要と考え、今回、全国で初めて地方自治体として主催者団体の一角を担うことといたした次第であります。
 今回の集会に参加し、今まで拉致問題解決に尽力された方々や会場にお越しいただいた多くの方々の思いが1つになり、拉致被害者救出への機運が高まっていくのを強く感じました。
 今回の集会がこれから全国で開催される集会のモデルケースとなって、全国的に大きな運動となって拉致問題解決の機運が全国で高まりますよう、私は期待しております。
○副議長(新島 雄君) 教育長山口裕市君。
  〔山口裕市君、登壇〕
○教育長(山口裕市君) 教科書の採択についてお答えいたします。
 まず、県立中学校の教科書採択に係る選定委員会の委員につきましては、学校長、教育行政関係者、学識経験者及びPTA代表者等の中から教育長が委嘱または任命した10名で構成しております。
 また、選定委員会は、研究、選定した内容を資料や口頭で教育委員会に報告いたします。
 調査員会の調査員は、教諭及び県の指導主事から1種目につき2~3名を選出し、教育長が委嘱または任命しています。
 調査員は、研究、調査した内容を資料や口頭で選定委員会に報告いたします。
 次に、市町村立学校の教科書採択にかかわる採択地区協議会は、県内8地域に設けられております。また、選定委員会や調査員会の設置を採択地区協議会の規約によって定めてございます。教育委員会が行う採択地区の設定につきましては、各市町村教育委員会の意向等を踏まえ、より適切なものとなるよう今後も努めてまいります。
 次に、教科書の展示会場につきましては、本年度も3会場を新設し、全体で22会場となっております。
 次に、教科書に関するアンケートの様式につきましても、展示会に関する意見に加え、閲覧した教科書についての意見も記入できるよう工夫、改善を図っております。
 最後に、見本として使用されました教科書は、公民館や図書館、各学校などで保護者や教員、地域住民の方々が閲覧や調査研究できるよう条件整備に努めております。
 答弁、以上でございます。
○副議長(新島 雄君) 答弁漏れはありませんか。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(新島 雄君) 再質問を許します。
 19番尾崎太郎君。
○尾崎太郎君 教育委員会が主体的に教科書の採択にかかわる、これは当たり前のことなんですが、現実にはそれがなかなかかないにくいシステムになっております。談合問題に関しては、知事がそういう作為が入り込む余地がないようなシステムをつくるというふうにおっしゃって、今、改革が進んでおるところで、非常によいことだと思っております。この教科書採択のシステムも、もう教育委員が主体的に選ばざるを得ないシステムに変えていくということが大事なんじゃないかと思うんです。
 今、教育長の答弁をお聞きしまして、例えば「教育委員の選定というのはどうやって選ぶんですか」という私の質問に、「2~3名程度選出し、教育長が委嘱する」と答えておられます。この「選出し」ということの主語が抜け落ちとるんです。じゃ、だれが選出するのか。委嘱は教育長がすると、今、答弁でありましたが、だれがというのが抜けとるんです。恐らく意図的に抜いてるんだろうと思います。答えにくいんだと思います。そういうところが非常に見えにくい、システムとして明確ではないように思っているわけであります。
 まあ、この問題につきましては、私も今後ともさまざまなところで発言をしてただしてまいりたいと思います。
 教育委員の皆様方には、ぜひ主体的に自分たちが教科書採択にかかわっていくんだという意識をお持ちいただきますようお願いを申し上げまして、要望とさしていただきたいと思います。
○副議長(新島 雄君) ただいまの発言は要望でありますので、以上で尾崎太郎君の質問が終了いたしました。

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