平成18年6月 和歌山県議会定例会会議録 第7号(向井嘉久藏議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

  午後一時三分再開
○議長(吉井和視君) 休憩前に引き続き、会議を開きます。
 質疑及び一般質問を続行いたします。
 十三番向井嘉久藏君。
  〔向井嘉久藏君、登壇〕(拍手)
○向井嘉久藏君 皆さん、こんにちは。私、最後の質問者となりました。久しぶりの質問でございまして、二年半、サボったわけじゃございませんが、飛びました。心を込めて質問をさしていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 私のきょうの質問は、知事が当初、説明要旨の中で述べておられました地域資源の活用についてということと、それから県立高校併設中学校について、それから引きこもり対策について、この三点について質問さしていただきたいと思います。
 まず、地域資源の活用についてを質問さしていただきます。
 知事は、説明要旨の中で、地域資源の最大活用として、地域に埋没している資源をブラッシュアップし、観光資源などの面で最大限の活用を図り、住民主体の取り組みの拡充に努めてまいりたい、また、世界遺産である高野・熊野地域などを活用し、積極的な誘客対策を進めてまいりたいと、このように述べておられます。
 和歌山県は、まさに自然の宝庫であります。厳しい紀州の山々が、また不便な道路の事情がこの自然を守ったと、今になっては言えると思います。名所、旧跡、史跡等も数多く存在しております。いにしえより高名な人物も数多く輩出しております。
 本日は、質問するに当たって、今まで余り目を通したことのない文献とかパンフレットの各紙を参考にさしていただきました。県が発行している読み物、ガイドブック、各種資料が非常におもしろかったと思います。
 ここで、紹介されている人物で、私のよく存じ上げている方々がおられるので、少し触れてみたいと思います。
 プロ野球解説者の西本幸雄さんです。西本幸雄さんは、大正九年、和歌山市に生まれました。別府星野組の──社会人野球ですが──監督兼プレーヤーとして都市対抗に出られ、全国優勝して、そこで当時の毎日オリオンズ結成のときに参加された。後に、大毎オリオンズの監督、また阪急ブレーブスの監督、近鉄バファローズの監督ということで、リーグ優勝に導いております。後に野球殿堂にも入っておられます。私は、この方と三年間一緒に野球をさしていただいた。私の生涯の野球の恩人であると、このように思っております。
 また、前畑秀子さん。前畑さんは、大正三年、橋本生まれです。私の父と小学校の同級生でございまして、父はよく前畑さんのことを言っておりました。昭和七年、ロサンゼルスのオリンピックで平泳ぎ二位になりました。後の昭和十一年のベルリンのオリンピックで平泳ぎ二百メートルで優勝いたしました。河西アナウンサーの「前畑頑張れ、頑張れ、頑張れ。前畑勝った、勝った」という名放送が今も時々放送されております。
 続いて、古川勝さん。私の高校の二級先輩であります。橋本市出身でございます。
 おかしいですね。前畑さんと古川さんとこの家が三百メートルしか離れてないんです。その間に、小島さんという、また女性の方がおる。その方もベルリンオリンピックへ一緒に出場して、自由形──クロールですね──それで六位に入賞しとるんですね。これ、自由形で女子が入賞したというのは小島さんが初めてです。ですから、三百メートルほどの間に三人のオリンピック出場者がおって、しかも同じような水泳の選手で二人がゴールドメダリストと、こういう町は日本広しといえども橋本市以外にないが、このように思うわけでございます。私の知り合ってる方、自慢じゃないですが、この顕彰を改めてさしていただきました。
 プロ野球解説者の西本さん、それから水泳の前畑さん、古川さん、それぞれ立派な方でありますし、高名であります。本日は、知事がいみじくも言っておられる地域に埋没している資源を、すなわち史跡、人物等もひっくるめて御紹介いたしたいと思うんです。
 二つの例を皆さん方に御紹介さしていただきたいと思うんです。
 戦後初めて後楽園に日章旗と「君が代」をよみがえらせた男。昭和二十四年ですよ。まだ日本の国の中で日章旗が翻っているというのはなかったと思います。皆さん御存じでしょうか、原田恒男という方を。和歌山県出身者です。
 私は、平成十六年、新聞を見ておりましたら、この原田恒男さんの記事が出ておりました。ファイルに切り抜いて入れておりました。きょう持ち出して、ここに紹介さしていただくわけでございます。戦後、日本のスポーツ復興に大変な尽力をした方であります。
 原田さんの両親は、日高郡白崎村──と言いますから今の由良町でしょうか──からアメリカのサンタマリアに移住し、そこで生まれたのが原田恒男さん、日系二世であります。原田さんは軍人であります。情報将校の中尉でございましたが、戦後、マッカーサーに随行して来日しております。
 プロ野球のために後楽園を、六大学野球復活には神宮球場を、またそして中等野球、後の高校野球でありますが、さらなる発展には甲子園球場を早くに接収解除──若い方は接収って余り知らんと思うんですが、僕らの年代になったら、米軍が日本の主要な施設に戦車を入れたり大砲を入れたり、そういう──後楽園にも実は戦車なんか入れられてあったんですね。それで、球場としては使えなかった。甲子園にも入れてあった。神宮球場にも入れてあった。それの接収解除、自由に日本人が使えるように接収解除を早く手がけた、やっていただいた。
 昭和二十四年には初めて、メジャーではございませんでしたが、サンフランシスコ・シールズというアメリカの野球団が来日しました。そのチームには、ヤンキースからディマジオもまざって入っておられました。監督はオドール監督。有名な方ですが、オドール監督でございました。
 戦後来日した原田中尉がマッカーサーの唱える平和の礎とした野球を初めとするスポーツ奨励に努めていただいたその功績は、多岐にわたります。日本のスポーツ発展のため全精力を注ぎ祖国愛に燃えた、初めて日の丸を掲げた男、その男こそが原田中尉であります。和歌山県人であります。
 私は、この原田さんを知るために、いろいろ資料を探してみたんです。なかなか見つからんかったんですが、最近になって、インターネットで調べておりましたら、物すごいええことが出てた。私、今ここで紹介したら、胸詰まって、よう皆さんに説明せんようなことを書いてあるんです。このインターネットで紹介した方も、こんなこと書いてあるんです。「この手記に対するコメントは特に控えるが、大き目のタオルを用意してこれを読め」って、こう書いてあんねん。確かに、読んだらもう胸詰まって、私、ようここで言わん。もしよかったら、紀南出身の人ですから、後から、「おい、見せろよ」と言うたら、いつでもお見せしますので。(「読んでくださいよ。読んでください」と呼ぶ者あり)読めってか。ちょっと胸詰まるけども、じゃ、ちょっと最後に読ましてもらいます。
 この方は、情報将校として米軍のレイテ島の方へ出とったと。そこへ零戦が突っ込んでくるんですね。飛行機、突っ込んでくる。低く飛んできて。ところが、あんまり低く飛んでくると、撃つと、自分とこ同士撃ち合いするようなことになるんで、もうあきらめたというんですよ。もうちょっとで軍艦へぶつかるときに、飛行機があんまり低う飛び過ぎて、波に翼がさわって墜落したと。
 そしたら、この人が、みんなに、「もう撃つのやめよ。撃ったらあかん」と言うた。それで双眼鏡──もう死んだんかいなと思ったら、その乗っとった、操縦しとったパイロットは、その軍艦に向かって敬礼しとる。それを双眼鏡で確認した。何とかこのパイロットを助けたいと。それで、どないしようかと決めて、「狙撃しようや」って。「もうどうせ死ぬやろう。この人は死ぬ気で来とんやから、そやから狙撃して傷を負わして助けに行こら」と言うたんやけど、そのうちに、その人は敬礼せんようになったというんですね。それで、すぐ助けに行った。
 それで助け上げて、情報将校でありますんで、日本語のわかる将校でありますんで、尋問したと。そしたら、そのときに泣いたというんやな。泣きじゃくっとった。「何で泣きじゃくったんや」と、「失敗したから残念や」と泣きじゃくった。それで、「わしにピストル貸せ」、「何でそんなピストル要んのや」、「これから自決する」と言うた。それで、「今後もっと長いこと生きよよ」と説得したら、「おれに飛行機くれ」って。「何で飛行機要るんや」と、「もう一遍神風となってこの船に体当たりに来るんや。死んだ人の、戦友の後を追って大義に殉じるんや」と。こういう話やった。
 そのときから、原田さんは──アメリカでは「キャッピー・ハラダ」というふうに呼ばれとったらしいです。自分の手記ですから。「その日から私は日本人に戻りました、原田恒男という日本人に戻りました」という、これ手記なんです。感動しました。
 これは横へ置いときまして、次に史跡で御紹介さしていただきます。
 日本で最後のあだ討ちと言われる高野のあだ討ちというのがございます。今回この事件を紹介さしていただくのは、日本で最後のあだ討ちでありますし、和歌山県高野町神谷で起こった事件であります。また、この事件を契機として、仇討ち禁止令なる大政官布告が出ておる。これは明治六年に出ております。それで、あだ討ちしたのが明治四年です。一八七一年──「イワナイ」という数字ですから、皆さん心当たりあると思うんですが、廃藩置県のときですね。ですから、ちょうど県ができて、まだ藩が残っとるというような複雑な日本の明治維新の夜明けのときですね。
 次に、処分について、時の参議・西郷隆盛がこの解決について一役買うとる。
 また、残されております資料では、あだ討ちの生き残りの村上四郎とか水谷嘉三郎に実際面接して──当時、五條県庁と言うたんですね。奈良県五條市。今、五條市ですけども、そこに県庁があったんや。それで、高野山は五條県庁の所管やったんで、五條県庁と五條警察から現場検証をされておるわけですね。当時の模様を聞き、また目撃者から情報をとって詳細に聞き、史実に忠実に書き残された。これがまた警察の手で残されてるというのが今までにない記録ですね。また明治四十五年に、この警察が調べた資料に基づいて、大江素天という大阪朝日新聞の記者が十五回の連載記事にして出したもんですから──これは今度、新聞記者の目で見とるわけですね──そういうことで当時は大変話題になった。
 それと、後から述べますが、これが播州赤穂の藩主の跡目相続だったんですね。森家というのが藩主ですが、そのときはもう浅野家ではありません。浅野家はもう没収されておりますから、その後の森家の跡目相続。吉良家の討ち入りがあったところの播州赤穂からまた同じようにあだ討ちがあったということで非常に話題になって、これが芝居になって大阪あたりでは上演されたという記録が残っております。
 こういうことで、非常に興味のそそられる事件であるということで、ちょっと紹介さしてもらいます。
 仇討ち禁止令の最初の法律が明治六年に公布されました。社会秩序の保全から、国や地域社会などの公の部分が犯人を裁き処罰をするという国家的公刑罰権の確立が近代国家への必然的な政策であった。そのきっかけをつくったのが、明治四年のこの神谷でのあだ討ちであります。国の法律を公布せしめた事件として後世に伝えられるべきものと思います。
 この資料といいますのは、いろんな資料があるんですけども、まず一つには、「和歌山県警察史 第一巻」にこのことが詳しく載っております。また、後の妙寺警察の署長をされた立石さんという方が、高野の決闘、日本最後のあだ討ちということで、かなり詳しく調べておられる。
 こういう資料を、ほかの資料もあわせて、シナリオライターのジェームス三木さんに、「脚本家としてこの資料はどうですか」ということで、友人を介して提供さしていただいた。今ひょっとしたら脚本を執筆中かいなと期待はしとるんですが、いずれできたらどこかのテレビ局で取り上げていただけるんやないかなというふうに希望を持っております。
 事件の概要を紹介いたしますと、明治四年からさかのぼること九年、文久二年、播州赤穂で藩主の後継者選びに端を発しまして、重臣の村上真輔というのが反対派の西川一派に殺害されました。これのあだ討ちをするんだということで、残された遺児四人がずうっと九年間にわたってあだ討ちの機会をうかがっとって、最後に高野山の一里手前、神谷の地でようやくあだを討つわけでございます。現場には、あだを討って首を落として、そこにさらした石も現在残っておりますし、討たれた七人の西川一派のお墓もつくっておる。こういうことでございます。
 この二例は余りにも知られていないことでありますが、それこそ埋没している資源になるんやないか、こういうふうに思って紹介さしていただきました。この資源を活用すれば観光客の誘客にもつながるんではないかということで紹介さしていただきました。
 そこで、教育長にお尋ねいたしたいと思うんですが、一番として、和歌山県のスポーツの殿堂の設置についてであります。
 和歌山県には大勢の高名な人、スポーツにプロ・アマ通じて出ております。それらの方々を顕彰する意味でスポーツの殿堂の設置をお願いしたいと。
 もう一つは、旧跡、それから史跡等の常設館をどこかに──常設館というよりも常設展示場でしょうか──つくって、そこへ足を運べば和歌山県の史跡、旧跡が一目でわかるような場所をつくっていただけんかなというふうに質問さしていただきます。
 三つ目は、和歌山県のすべてがわかる、史跡、旧跡、自然、スポーツ、文化等、すべてを網羅したホームページの立ち上げをお願いできんかなと。私も、この資料をとるのに、和歌山県へアクセスして、そこから各市町村へリンクしていろいろ調べましたが、詳しいこと、全然出てこない。ですから、わからんのですよね。私の今調べようとしとったのは余り知られてない部分ですから余計載ってないということでございますんで、ひとつよくわかるホームページの立ち上げをお願いしたい。
 それから、埋もれた史跡、旧跡等の整備もあわせてお願いしたいと。この四つを教育長に質問さしていただきたいと思うんです。
 続いて、教育問題を、同じく教育長にお願いしたいと思います。
 三月一日、高等学校の卒業式がございました。私は、紀北工業高等学校のPTAの会長を十八年間もう既にさしていただいていますが、その場へ教育長に出席いただきました。ありがとうございます。
 私が感動したのは、二百十四名卒業いたしましたが、そのうちで三十三名の皆勤賞が出た。二百十四人に対して三十三人の皆勤があった。十五・幾らかの率ですが、すばらしいことやなということで、私は祝辞の中でもそれを言わしていただきましたが、今、高校の現場は──高校というよりも県下の小・中・高、変わりつつあります。恐らく教育長も、何かこう肌で感じていただくことがあったんかと思います。
 そこで、私は、県立高校併設中学校について質問さしていただきます。
 二年前に、県立向陽高等学校に県下で初の中高一貫教育を目指す併設中学校が設立されました。設置に当たっては準備期間が短かった。夏休み過ぎてから、「来年、あんたとこやるで」と、こう言われたらしいです。準備不足のまま設置された。私も大いに危惧いたしましたが、案ずるよりは産むがやすし──すばらしい実績を残してくれています。三年連続して志願倍率が十倍と、異常と思えるほどの人気であります。関係者の関心の高さをうかがわせるものでございます。
 また、本年は、橋本高校と田辺高校で中学校が併設されます。橋本高校で志願倍率が三・八倍、田辺高校で二・八一倍と、地域の期待を集めております。
 橋本高校は私の母校でございましたので高校へお邪魔して、また向陽高校、この両校へお邪魔していろいろ御意見、御感想を伺ってきました。
 その中で、ちょっと紹介させていただきますけども、先輩格の向陽高校では非常なメリットがあったということでございます。入学してきた生徒が、また保護者がはっきりとした目的意識を持っている。また、教師にもやりがいが出てきて、非常に熱心である。また、成績につきましても、全国で百校以上が参加する共通試験で二年連続して上位十位以内に入りました。また、PTAを開催する、授業参観を開催する、こういうときにも保護者が非常に熱心で、大勢の方が見えられ、廊下で授業を参観せないかんというようなことでございます。また、六年間の教育で時間の有効活用ができるので、高校三年の前半にすべての教科が終わって、あとは大学の受験に向けて勉強に没頭できると、こういうふうなメリットを挙げておられました。
 それじゃ、ええことばっかりかと言ったら、やっぱりデメリットもあるわけですね。教室に余裕がない。高校で二クラス減ったから二クラスの中学校をつくりましょうというふうにやってしまったもんですから、教室に一つの空き教室もないというようなことで、少人数での授業はできないと。特に向陽高校では、高校は一限が七十分授業、週に二、三回は七限まであると、こういうような授業。中学校では、一限五十分授業でありますから、授業の時間が違いますから、教室また教師のローテーションがうまくいかないという悩みを抱えております。それからもう一つは、入学適性検査で合格通知したら、私学へ合格したから辞退しますという問題が出てくる。そしたら、なかなかうまく後の補充がしにくいということで一工夫する必要があると、こういうふうな話でございますが、これはいずれも努力すれば解決できることだと思います。したがって、メリットが非常に多いというふうに思います。
 また、橋本高校では、中高一貫のメリットを生かして、先輩の向陽高校の実績と反省を踏まえて頑張ってまいりたいというふうな話でございまして、しかし、デメリットとしては、もともと高校の運動場が非常に狭隘でありましたので、中学校の部活はできるんかなというふうに心配をしておりました。いずれにしても、メリットが多く、地域の期待に十分こたえられるものと思います。
 そこで、教育長にお伺いするんですが、向陽中学校の実績に対する総括をお伺いしたい。
 それと、今後、併設中学校の設置はどのようにお考えになっておるのか、計画についてお伺いしたい。
 それから、最後に、走りながら設置していったそういう関係でまだ施設が十分に整備されてないということで、施設の整備計画について、この三点をお伺いしたいと思うのでございます。
 続いて、三つ目は引きこもり対策についてお伺いします。
 厚労省のガイドラインでは、引きこもりとは、「自宅に引きこもって社会参加をしていない状態にある人の中で、統合失調症や発達障害と診断された人を除外し、引きこもり期間がおおむね六カ月以上である人を社会的引きこもりと言う」と、こういうふうに規定しております。
 県下で引きこもっている人は七千人とも八千人とも言われておる。これ、日本全部に単純に掛けると大体九十万人が引きこもってるということです。ということは、九十万家族が泣いてるということです。
 年齢も、十代から五十代、六十代。五十代、六十代というのは、私はまさかと思っとったんですが、実際いてはるんですね。リストラをされた、何年も何年もハローワークへ通った、しかし職がない、だんだんハローワークへ行く回数が減ってきて、家で引きこもってしまった。子供さんも奥さんもある方が引きこもっているという方もおられるわけです。
 自宅へ引きこもって、長い人は十数年。中には、トイレへ引きこもってしまって、その中で何年も生活していたというのもテレビで取り上げられて──布団をトイレの中へ持ち込んで、そこで生活しておる。家族はトイレの前へ三度三度の食事だけ届ける、こういう生活が数年続く。こういう生活だったら、本人もさることながら、家族も身も心もずたずたになりますよ。
 そういう異常な状態になっているにもかかわらず、抜本的な解決策がまだ見つかっておりません。国は救済策をまだ実施するまでには至っていないんです。本県は先進的な取り組みを実施していると言われております。しかし、まだ解決には至ってない。国の対策を待つのでなく、和歌山発の施策を望みたいのであります。
 私は、こんなときに、ある講演で、和歌山県人として非常にうれしい、胸いっぱいになるような講演を聞く機会に恵まれました。その講演を、私はちょっとエールを込めて紹介さしていただきたい。知っておられる方──古い県職の方は知っておられると思います。ハンセン病の逸話であります。
 ハンセン病とは、ノルウェー人のハンセンという方がレプロミンという薬をつくったということで、今、ハンセン病というふうに言われておりますが、昔の呼び名でいくと、らい病ですね。
 明治十一年、らい予防法というのが施行されまして、ハンセン病が発症したら強制的に家族と切り離されて強制入院をさされたわけですね。戸籍も抹消されたと、そういうことですね。それで、各都道府県は、そのときどんなことをしとったか。平成八年にこの法律が廃止されるまでどんなことをしとったか。「無らい県や。私とこの県には、らい病の方は一人もおりませんで」というようなことを自慢し合ってたという時代ですよ。それが、平成十三年に熊本地裁で違法判決が出たということで、時の総理は小泉さん、「ハンセン病の方々、また家族の方々に申しわけなかった」というふうに謝りましたね。謝罪した。これで上告しないで判決が決定したんですね。
 それは前段でございまして、私の今御紹介したいのは昭和三十二年の話ですよ。時の知事は小野真次知事ですよね。和歌山の和歌浦にインマニエル皮膚病院というのがありまして、そこの院長さんが知事さんに会うた。それで、「知事さん、こんなことってあかんで。これは皮膚病やで。薬つけたら治んねん」ということで言うたら、知事は「わかった」ということで、和歌山県の場合は皆、患者さんは自宅へ一たん帰したらしいです。しかし、自宅へ帰ってみたら、そこで人権侵害が起こるわけですね。
 そこで、和歌山県はどんな態度をとったか。そんな方、どうしても仕方ないから和歌浦にその方たちに宿泊してもらう健康宿泊場なるものをつくって、それで、県の職員を二人そこへ張りつけて、そこで生活していただいたという実績があります。
 しかし、一カ月に一回ぐらいは薬をもらいに行かなあかん。しかし、普通のところには売っておりませんから、岡山愛生園まで行って薬をもらいに行かなあかん。それで、どないして行くか。貨車です。国鉄は乗せてくれへんねん、客車には。そやから貨車で行って、橋本経由して王寺へ行って、京都へ行って、岡山まで行かなあかん。二十時間かかったんやと。そしたら、それを言うたら知事はどない言うたか。「わしの公用車使え」。公用車でまた行った。しばらくしたら、公用車使うのはいかがかなと言うてきたんで、知事はポケットマネーで、そこの施設に行ってる職員さん、西さんという方──今でも存命されとるというふうに聞いていますが──西さんに「これ、おまえの名前で車買え。それで行け」と、こういうふうに言うたらしいです。それで患者さんを岡山愛生園へ搬送しとったという話です。
 それで、ここまでが私が聞いた話ですが、そのまた後談があって、そしたら意地悪なマスコミがおって、「知事さん、あんた、国の法律に背いて何するんよ」と言うて質問したら、「何言うとんのや。人の命が一番やないか。国に法律があろうと何しようと、人の命は一番や」という一言で終わってもうたと、こういう逸話なんですね。これを私は誇りを持って聞かしていただいた。
 そこで、引きこもりについてちょっとお伺いしたいんです。
 これまでの県の施策について、また二番目として本人、家族が集える居場所づくりについて、三番目、家族のケアについて、それから情報の提供について、市町村でも対応できる県のバックアップについて、県独自の施策について、人材の養成も入れて福祉保健部長にお伺いして、私の一般質問を終わります。ありがとうございました。
○議長(吉井和視君) ただいまの向井嘉久藏君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 福祉保健部長嶋田正巳君。
  〔嶋田正巳君、登壇〕
○福祉保健部長(嶋田正巳君) 引きこもり対策六項目についてお答えを申し上げます。
 まず、これまでの県の施策につきましては、議員からもお話ございましたが、社会的引きこもりが問題化する中、県では全国に先駆けて、平成十六年度からNPO等との協働により、「社会的ひきこもり」者社会参加促進事業として社会的引きこもり者に対する総合的支援に取り組んでいるところでございます。
 本人、家族が集える居場所づくりにつきましては、具体的には、民間の二団体を「ひきこもり」者社会参加支援センターとして指定し、引きこもり者に対する家庭訪問や居場所の提供、回復途上の引きこもり者への就労支援活動を行っております。
 次に家族のケアにつきましても、家族の方々が集い、引きこもりに対する理解を深める場としていただけるよう、平成十六年度から精神保健福祉センターにおいて家族教室を開催しているほか、今年度から不安感の軽減や家族同士の意識の共有を図るため家族の集いの支援を行ってございます。
 また、社会的引きこもり者相談窓口に関する情報提供が不足しているのではないかという御指摘につきましては、今後、自治体の広報誌の活用や県のホームページ等を利用して一層の周知に努めてまいります。
 次に、市町村でも引きこもりの相談に応じられるよう県の支援をとのことでございますけれども、平成十六年度から精神保健福祉センターにおいて、保健所、市町村の担当職員を初め、生活支援センターや作業所の職員等を対象といたしました研修会を開催、二カ年で約七十名の参加者がございましたけれども、こうしたことで引きこもり相談従事者の養成を図ってございます。
 最後に、県独自の施策につきましては、これまで全国に先駆け取り組んでまいりましたNPO等との協働による「社会的ひきこもり者」社会参加促進事業を引き続き展開してまいりますとともに、本人や家族からの幅広い相談に対応できる人材の育成や居場所づくりの拡大に一層努力をしてまいりたいと考えてございます。
 以上でございます。
○議長(吉井和視君) 教育長小関洋治君。
  〔小関洋治君、登壇〕
○教育長(小関洋治君) 地域資源の活用と県立高校併設中学校の二つの御質問、合わせて七項目についてお答えいたします。
 まず、和歌山県スポーツ殿堂についてでございます。
 アマチュアやプロを問わず日本国内あるいは世界を舞台に輝かしい実績を残した競技者やスポーツの発展に貢献のあった本県ゆかりの方々を顕彰することは、県民、特に次代を担う子供たちに大きな希望を与えるとともに、本県のスポーツ振興に重要な役割を果たすものと考えております。
 現在、紀三井寺公園陸上競技場の中に、昭和五十七年六月に開設された和歌山県スポーツ資料館がございます。この中では、例えば栗本義彦氏、西田修平氏、お話にもありました旧姓前畑秀子氏に関する資料や、オリンピック、世界選手権大会などのメダル類、昭和四十六年に開催された黒潮国体に関する資料などが多数展示されております。
 今後は、関係部局や関係団体と連携・協力し、展示品の充実に努めるとともに多くの県民の方々に訪れていただけるよう、積極的な広報活動を展開してまいります。
 次に、旧跡、史跡等の常設展示場の設置につきましては、これまで県立博物館や紀伊風土記の丘において、県内各地域で出土した石器、土器や遺跡の復元模型などの常設展示を行ってきております。また、平成十八年度に開催する特別展として、岩橋千塚古墳群の大日山三十五号墳で発掘された、全国にも類を見ない翼を広げた鳥型埴輪や特異なかぶとを装着した武人埴輪など、県民の方々に貴重な文化財を公開するため、現在準備を進めております。
 埋もれた史跡、旧跡等の整備については、国や県、市町村の指定文化財以外にも、本県には史跡や建造物など数多くの文化財が残されております。これらは、専門的な調査に基づき、その価値を明らかにし保存整備を行うことにより、地域活性化の資源として十分活用できるものと考えております。
 教育委員会では、先ごろ、県文化遺産保存活用グランドデザイン指針を策定し、江戸時代末期以降の近代化遺産の総合調査を実施するとともに、来年度の新規事業であります文化財指定ランクアップ推進事業によって価値の高い未指定文化財を発掘し、より一層その保存と活用を進めてまいります。
 文化やスポーツを紹介するホームページについては、国、県の指定文化財や紀ノ川緑の歴史回廊に関する史跡など、またスポーツイベントや総合型スポーツクラブの情報などを紹介しているところですが、よりこれらを活用しやすいホームページにつくり変えてまいりたいと存じております。
 次に、県立中学校についてお答えいたします。
 開校して三年目を迎えようとしている県立向陽中学校では、六年間の系統性のあるカリキュラムのもと、高等学校教員による専門性の高い授業や、例えば実験理科といった学校独自教科の開設など、個性をはぐくむさまざまな教育活動により多くの実績を積み重ね、保護者や地域の方々から高い評価と大きな期待を得ているところでございます。
 この四月に新設いたします橋本地域と田辺地域の二つの県立中学校においても、こうした成果を踏まえながら、それぞれの学校の特色を生かした教育の充実に努めてまいります。
 また、今後の設置につきましては、再編整備計画の第一期実施プログラムに基づき、全県的なバランスや地域の実情等を勘案しつつ総合的に検討しており、当面、平成十九年度に一校の併設型中高一貫教育校の開設を予定しております。
 さらに、施設面におきましても、新たに技術室等の設置や普通教室の改修を行うとともに、高等学校の充実した施設・設備を活用するなど、最適な学習環境を確保してきたところですが、今後とも県立中学校に対するさまざまな県民の期待にこたえられるよう努力をしてまいります。
○議長(吉井和視君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(吉井和視君) 以上で、向井嘉久藏君の質問が終了いたしました。
 お諮りいたします。質疑及び一般質問は、これをもって終結することに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(吉井和視君) 御異議なしと認めます。よって、質疑及び一般質問はこれをもって終結いたします。
 次に日程第三、議案の付託について申し上げます。
 ただいま議題となっております全案件は、お手元に配付しております議案付託表のとおり、それぞれ所管の常任委員会及び予算特別委員会にこれを付託いたします。
 次に日程第四、請願付託の件について報告いたします。
 今期定例会の請願については、お手元に配付しております請願文書表のとおり、それぞれ所管の常任委員会にこれを付託いたします。
 なお、委員会の会場はお手元に配付しておりますので、御了承願います。
 お諮りいたします。三月十日及び十三日から十五日までは委員会審査のため休会といたしたいと思います。これに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(吉井和視君) 御異議なしと認めます。よって、三月十日及び十三日から十五日までは休会とすることに決定いたしました。
 次会は、三月十六日定刻より再開いたします。
 本日は、これをもって散会いたします。
  午後一時五十二分散会

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